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12 29
2013

国家と文明の優劣論

西洋の「極論」、「理想像」だけ見えてしまう件について

 明治の「文明開化」いこう、西洋が進んでおり、日本は遅れていて、「日本的なるもの」は排斥しなければならないという構図でずっとやってきたわけだが、日本の「土俗的」で「後進的なもの」、西洋にないものと思われているものも西洋にあることもあんがい多いのではないのかと気づく。

 進んでいる西洋は「極端なステレオタイプ」になり、遅れている日本も「極度なステレオタイプ」で見られることが多いのではないのか。

 日本には完全に欠如していると思われるものも日本にもあったりするし、西洋にも遅れていて、非文明的なものも多く残っていたりする。極論のステレオタイプは、完全欠如を思わせるのだが、双方には欠如しているものをいくぶん残していたりする。

 極論のステレオタイプは「相対的」なもので、「程度」の問題と見ることが妥当なのではないのか。極論しかないのではない。双方はそれぞれをふくんでおり、程度が違うだけである。

 例をあげるとするとアメリカは「個人主義」や「個性」の国と思われるステレオタイプが充満しているのだが、社会学者のデイヴィッド・リースマンの『孤独な群集』やホワイトの『組織の中の人間』などを読むと、アメリカ人もずいぶん「同調主義」で「画一化」の国であることを思い知らされる。

 
4622083639孤独な群衆 上 (始まりの本)
デイヴィッド・リースマン 加藤 秀俊
みすず書房 2013-02-22

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4488006590組織のなかの人間 上―オーガニゼーション・マン (現代社会科学叢書)
W.H.ホワイト 岡部 慶三
東京創元社 1959-03

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 というか、日本のちまたの人とどこがどう違うのか、われわれ自身のすがたではないのかという錯覚にとらわれる。

 アメリカを1830年代に旅したフランス人のアレクシ・ド・トクヴィルはアメリカを「画一化」と「大量生産」の国だと批判したのだが、日本人の「個性」と「個人主義」の国のイメージとだいぶ異なるではないか。

 
4061587781アメリカの民主政治(上) (講談社学術文庫)
DE・アレクシス・トクヴィル 井伊 玄太郎
講談社 1987-03-04

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 ヨーロッパからすれば「画一化」の国も、日本からすれば「個性」の国だ。比較する対象があるから極論がめだつだけであって、程度や比較の違いにすぎないのである。それをわれわれは極度なステレオタイプを錯覚することになる。

 エドワード・ホールの『かくれた次元』ではアラブ人やフランス人では固体距離は近いのだが、アメリカ人やイギリス人では遠くになり、アメリカ人とアラブ人が対面で話すと部屋のはしからはしまで歩くことになるという笑い話がある。日本人にはアメリカ人はずいぶん近づくと思われるのだが。

 
4622004631かくれた次元
エドワード・ホール 日高 敏隆
みすず書房 2000

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 相対的な程度の問題なのである。極端はなくて、中間のグラデーションのどこかに位置するだけなのである。

 理想像は極端な理想像と蔑視の現実像というものをわれわれに見せつけるのだが、どちらかというと蔑視の現実像は相手も多くふくんでいることもあり、見まいとするそれが多く構成しているということも多分にあるのではないのか。

 アメリカ人は「個性」や「個人主義」のカッコいい国だと思われているのだが、それはおもに映画やドラマなどのメディアによって植えつけられたのかもしれないが、メディアに出てくる人はその国でも「理想像」であって、ヒーロー像の「幻想」であったりする。

 日常の現実の人たちはもっとふつうで、ダメダメで、理想とかけ離れた人たちではないのか。そういうダメダメだからこそマスメディアの憧憬や魅力が光る。メディアで植えつけられたイメージは、「どこにもない理想」をあらわしている、当地においてもそうではないのか。

 西洋列強の仲間入りをするために、明治の日本は裸体禁止やおおらかな性風俗の禁止、性器崇拝の「遅れた、土俗的な日本」の排斥をおこなってきたことも、じつは西洋の極論だけを見ていただけではないのかと思う。

 むかしの日本の性風俗は農耕民の豊穣祈願と結びついていたために積極的な性生活の奨励や敢行がおこなわれていた。けっして愚かでも、乱れていたわけでもなくて、論理的な信仰理由があったのである。

 明治の政府は遅れた後進国の性風俗では恥ずかしいと、キリスト教の純潔思想や貞操観念を民衆に植え込もうとしたのだが、原始宗教のエリアーデやフレイザーなんか読むと、どうも西洋にも豊穣祈願による性風俗というのはむかしには日本とおなじようなものがあったようなのである。

 
4624100085大地・農耕・女性
M.エリアーデ 堀 一郎
未来社 1968-01

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4480087370初版 金枝篇〈上〉 (ちくま学芸文庫)
ジェイムズ・ジョージ フレイザー James George Frazer
筑摩書房 2003-01

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 西洋にはまったくなかったのではなくて、かつておなじようなものがあり、名残りのようなもの、かたちだけがべつのものにすりかえられて残っているものがあんがいあるものだった。

 農耕というものは人間の性と同一化されていたのである。ゆえに豊かな収穫や食糧の豊穣をねがうとするのなら、性行動や生殖を励むことによって、実りが約束されると考えた。おおらかな性はその帰結にすぎない。

 日本には比較的長くその豊穣祈願と性の同一視がのこっていたためにおおらかな性ものこったのであるが、明治の政府ははげしくこの日本の土俗的な習慣をとりのぞこうとしたが、西洋にもその残存がまったくなかったわけでもなかったのである。

 性風俗にかんして日本は極端だけを見て、共通のものを見ようとしなかった、見えなかったのではなかったのか。排斥しようとしたものは、「文明国」の西洋にまったくなかったものだろうか。エリアーデの著作なんか読むと疑問に思えるのである。

 極端だけを見るというのは、うつ病の「全か無か」思考とおなじである。「すべて」か、「まったくないか」のふたつだけになり、極端しか選択肢がなくなる。そのことによって、うつ病の人は絶望や極限に追いつめられるのである。

 明治の日本は「進んだ西洋」と「遅れた日本」という図式で、西洋のキャッチアップにずっとはげんできたわけだが、そういう「進歩史観」は極論だけを見せて、多くのものをとりこぼしてきたのではないのか。

 この図式が適用されるとき、極論と極端だけ見ているのではないかという警戒が必要なようである。「進んだ文明国」にもたっぷり残っている、もしくは「理想像」だけわれわれに見せられていると見なす必要もあるのではないかと思う。


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