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12 15
2013

日本崩壊80年周期説

日本はなぜ80年周期で上昇と下降をくりかえすのか

 80年周期説を近現代史に読むこむというテーマで読書をしているのだが、なかなかそういう時代精神を跡づける作業は難航していて、ひとまずばくぜんたる思索を試みたいと思う。

 思考の実験を試みているので短文制約のブログにはふさわしくない長文になったので、つまみ読みでもしてください。

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▲明治と戦後昭和の80年周期サイクル図



80年周期のピークと壊滅


 明治から戦前昭和までの80年周期は、ピークのころの夏目漱石の「高等遊民」の登場に国家目標喪失の危機があらわれ、その後は太平洋戦争へといたる暗い「奇胎の40年」に落ち込んだと、精神科医の稲村博や司馬遼太郎がいっている。

 1868年の明治維新から「文明開化」や「殖産興業」がおこなわれ、日清戦争、日露戦争の1905年のピークにのぼりつめ、とうしょの国家目標であった「列強の一等国の仲間入り」をはたし、その後、「高等遊民」や石川啄木の「時代閉塞の現状」などをへて、1929年の世界大恐慌という世界的危機をむかえて泥沼の日中戦争、破滅へといたる太平洋戦争につきすすみ、国家的な壊滅状態におちいったのが1945年。この間、78年。

 この上昇と壊滅へといたる道すじと似た道をたどっているといえるのが戦後昭和からの歴史である。1945年からのピークとされる40年後は1985年。この後1991年までバブル経済というピークをむかえるのだが、このときもアメリカを抜いて世界最大の「超大国」になったと酔いしれたのであるが、その後はおおよそ二十年のあいだ「失われた二十年」といわれる月日に落ち込んでいる。

 ピークは戦後の目標である「経済大国」になるという夢を達成してしまって、その後の目標がない、目標のために生きる人生を喪失する転換期でもある。アパシーやひきこもり、フリーターといった現代にもつながる目標喪失の若者たちがあらわれてきたのがこのピークのころである。アパシーや不登校を研究していた稲村博はこの現象に気づいて、「80年周期説」をとなえた。

 1945年からの80年後は2025年である。2013年からはあと12年後である。この間に戦前のサイクルであったような破滅へといたる暗い時代をへて、2025年に「現体制」、「戦後社会体制」は崩壊してしまうのだろうか。

 明治から敗戦までの78年は戦後昭和にもあてはまるような上昇と下降のパターンをほんとうにへたのかという検証を近代史にさぐろうとしているのがわたしのげんざいの試み。

 思索的には「なぜこうなってしまうのか」、「なにが社会に上昇と下降のパターンをもちこむのか」といった問いで考えるのがいいのだろうか。



国家目標の結集と喪失


 明治の国家目標には「西洋の列強入り」をめざす、「殖産興業」をおこすという鮮やかで明確な目標があった。戦後昭和には「アメリカのような経済大国」になるという目標によって高度成長を達成した。

 国家目標は国民をひとつの目標に結集するという壮観な凝結力をもたらすのだが、曲がりなりにもとうしょの目標が達成されてしまうと、目標の喪失とそれによる漂流、衰退をもたらしてしまうようだ。

 この停滞、衰退はげんざいの「失われた二十年」で経験していることで、社会精神や邁進力といった社会の駆動エンジンをうしなったように下降や崩壊へといたる坂道を用意してしまうのである。

 日本は国家目標の結集力を最大のパワーにして40年の上り坂をのぼりつめるのだが、その後の下り坂にそれまで構築してきた体制、制度などを崩壊に向かわしめてしまう。

 前半の40年には結集力の最大パワーを引き出せる長所を生み出すのだが、後半の40年にいたる停滞期はその結集力の欠点があちこちに噴出して、壮大なクラッシュをもたらしてしまう。単一目標に結集するばかりに、そのほかの目標や価値基準がなくて、前半の40年に構築した文明遺産を灰燼に帰す。長所が欠点へといたる変わり身の落差の大きさが単一目標の欠点である。

 単一目標の結集はその他の価値観の切捨て、排除によって生み出される。戦後の昭和の経済主義、会社主義がその他の価値観や生き方を大幅に制限したように、その他の生き方、価値観をゆるさなくなる。それによって単一目標の結集が可能になり、どうじに達成後の価値観をよういに生み出せなくなる。国家目標の結集は長所と欠点を80年のあいだにみごとにうきぼりにする。

 明治の維新が学歴に関係ない人によって生み出され、その後の大正、昭和には学歴エリートによる官僚制度が後半40年の崩壊と堕落をもたらしたという考えもある。官僚制度の完成、高学歴エリートによる上昇気運の消滅・壁天上という閉塞状況も、その後の坂道を用意してしまうのか。

 近代の国家は中央集権による国家コントロールによって単一目標に結集しやすい体制になったのだろうが、目標を実験的に創出する世代と、それを守り、維持する学歴エリートによる目標をあらたに創出できないふたつの世代格差を生み出してしまい、舵や海路をうしなった船のように漂泊・破滅をもたらす。



なぜ40年なのか


 なぜ40年で国家目標が達成されてしまうのだろうか。40年というスパンは、目標達成と喪失にいたる時間になぜあいふさわしいのか。

 戦後昭和の経済成長はおもに車や家電の発達や拡充によってもたらされたと考えてよいだろうか。車のための道路を全国にはりめぐらさせることが戦後昭和の成長をもたらした。

 明治の殖産興業ではおもに鉄道の拡充、木綿製品の普及、炭鉱事業、船舶事業といったものが支えた。

 そういうひとつの産業の勃興期と全世帯、全国にいたる拡充が40年のあいだに完成してしまうということだろうか。実質的には全国の産業の勃興と普及に40年の月日は必要ないだろうが、ほぼ10年や20年の製造と普及によって全国に拡充すると思われるのだが、それぞれの全産業のタイムラグや勃興期の違いによる40年という月日が必要になるのではないだろうか。

 商品サイクルが上昇期や普及期、衰退期をへるように産業のサイクルも上昇と普及期をへて衰退期のパターンをへる。そういう複合されたものが合計されて40年の上昇期、成長期をもたらすのではないか。

 世代的にも勃興期に企業や社会で活躍したものたちは普及期や成熟期に役職にのぼりつめ、新規参入たる若者世代に頭上を疎外し、壁天井をつくり、実験や創出ではない維持やルーティンの役割を押しつけるようになっている。

 青年たちも創出や実験でない行動や思考により適合するようになっており、維持と保守の立場により近くになっている。それによって閉塞状況はより増し、相互的に実験と創出の雰囲気をこわし、若者の上昇と野望の欲望は潰えるようになっている。上昇志向はより疎外される社会体制がいくえにも天上にはりめぐらされ、自身にも創出と実験の覇気も野望もなくなっており、社会の硬直度はより増す。

 社会は実験と創出をより生み出す雰囲気の時代と、それを押さえつけ、維持や保守を必要とし、押しつける社会情勢というものを生み出してしまうのではないのか。さもなければ創出期において活躍した功労者たちは自身の実りと功績の果実をうけとれない。

 実験でつくったものたちはつぎの世代には実験をさせない頭の重石になる。それがたんじゅんな人の集まり、世代による役割分担、事業を維持・保守するための組織の性質というものではないだろうか。

 新しい世代の硬直感、天井感はより増し、かつて創出をになった世代は高齢になり、創出と実験の必要性を感じない。そのことによって、目標や舵をうしなった維持・保守機能はかつてのルーティンをくりかえし、時代の変化、潮の変わり目についていけなくなる。

 新しい時代に適合した実験、創出は、新しい世代にとって高齢者の頭上の支配と、若者自身の保守化と実験創出の不必要性によって、よりできにくくなっている。時代の適合性をうしなった保守的な行動パターンにより新たな目標設定、実験設定もできなくなっている。これによって社会は時代の適合性から外れ、不適合な墜落壊滅をもたらしてしまうのではないのか。

 勃興の新世代が新しい時代をひらくのだが、成熟期において青年たちに実験と創出の行動パターンをゆるさなくなっており、世代の交代のすんづまりをおこす動脈硬化のような現象が、40年の世代間において起こってしまうのではないだろうか。



崩壊のパターンをもたらすもの


 明治の体制において昭和前期に自滅や自爆にいたる道すじを選択している。なぜ明治から構築してきた体制や業績を自滅・自爆する道を社会は選択してしまったのだろうか。

 アメリカとの戦争も明治の日清・日露戦争の延長として考えることができて、「奇胎」な道に入り込んだのではなく明治からの体制の存続・拡大であったと考えることもできる。西洋列強に打ち勝つことが明治の目標ならアメリカとの抗戦もとうぜんありうる。国家体制は自滅や崩壊をもたらさないと、えいえいと同一目標で永久運動をくりかえしてしまうものなのか。

 体制や国家の価値観というものは、一度固まってしまったらほかの体制、価値観を選択しえなくなってしまうのか。頭上の天上を追い払うには自滅の道しかないのか。歯止めやブレーキの利かない国家体制は自滅という道で浄化と再生をおこなうしか道はないのか。

 支配者層のパージや追放といった国家の価値感の転換は自国ではむづかしい。戦後はアメリカの戦勝と占領によって、旧体制の価値観と体制を放棄することができた。しかしそうなるまでに日本は自爆の道しか選択しえなくなっていたのか。

 価値転換や国家目標のあらたな創出をおこなえなくなっていたから、戦前日本は自滅の道しか選ぶことができなくなっていたのか。

 戦前は兵力による勝利と成功をもたらしたがために負け戦を予想できたアメリカとの戦争に突入したといわれる。戦争によって解決する、勝利をもたらすという成功体験をくつがえすことのできない体制が固まっていた。目標の転換、新たな創出ができないことが崩壊をもたらした。

 区切りや転換期を設定できなかったことが、成功体験の無謀な反復をくりかえさせたのではないのか。

 戦後の日本も経済成長という目標体制から、その目標喪失の時期をへてもひとつも転換できずにいる。経済成長という役割や用途はピークのころに終ったはずである。それなのにそういう体制や役割でしか舵をとえないようにがっしりと固まっている。

 パージや追放といった天上の壁を払うもの、価値観の転換をよういにするものを、明治からの近代国家は埋めこむことに失敗したのではないのか。体制自体に価値観や方向性の転換をよういにするものをビルトインする必要が日本国家には必要なのではないのか。

 功労者の首切りは時代の転換を人々に知らしめる。堺屋太一によると徳川家康などは全国平定の後には功労者たちに報いることをやめて、ぎゃくに罰則的処置をあたえた。褒賞をあたえると軍事的価値観の暴走や拡張が平定ののちにもおこってしまうからだ。

 秀吉はその兵力の下からのつきあげにあって、日本統一のみならず、朝鮮出兵という暴挙にまで出たといわれる。その価値観での出世と上昇を望む人たちが褒賞され、維持されるなら、兵力でのエネルギーはやむことはないからだ。

 時代の転換を読みとることと、功労者のパージといった非情な難事業が、国家目標を達成した後の国家に必要とされるのではないだろうか。



2025年のカタストロフに予想されるもの


 2025年のカタストロフにはどのようなことがおこるのか。前回のサイクルが戦争で壊滅状態になったように今サイクルも戦争によって国民の死と国土の焦土をもたらすのか。

 このような懸念はげんざいの反軍国主義の情勢からは予想しにくいことである。ほかの好戦的な国から戦争をしかけられる懸念はあるにしても、この国から戦争にのりだすことは考えにくい時代背景がある。あまりにも経済・商業主義の世の中になっており、戦争はつりあわない。

 あえてひとつの可能性をあげるとすれば、国家財政破綻がいまのところ予想されるところだろうか。

 財政破綻は戦後日本の「国家に頼れば最強」という価値観の生き方、体制を終焉させるからである。戦後の昭和体制はそのような「福祉国家的」な人生観の構築がひとつの大目標であったようと考えられる。

 財政破綻はこの国からそのような「国家最強人生観」を放逐するにあたいする出来事になるだろう。戦前のサイクルが軍国主義の力という方法でのしあがり、その返す力で壊滅状態にみちびかれたように、時代の体制はその価値目標じたいによって滅びるという因果関係が、サイクルの終焉・回収にふさわしい。

 国家破綻はそのような人生目標の終焉のインパクトを国民にもたらすだろう。ひとつの体制が終った、このような至上価値では生きることができない、誤っていたと反省する契機をもたらす出来事が、ひとつのサイクルの終り、新たなサイクルの再生と出発を思い知らせるだろう。

 たとえば国家破綻がおこれば公務員の給料のカットオフや大量の首切りといった事態も予想されるだろう。公務員になれば安定した人生をおくれるという神話が今体制の基盤にあったように思われる。

 年金でげんざいでは3400万人の受給者がくらしているといわれるが、この人たちの支払いがとどこおるようになれば、どのような惨状がもたらされることだろう。高齢者はあたらしい収入減を生み出しにくい。

 大企業の正社員も国家によって守られていた度合いが強い企業ほど、財政破綻の影響をうけて斜陽や倒産の憂き目に会うかもしれない。

 国や市の行政サービスのような事業やサービスもとどこおるだろう。道路の修繕やゴミの回収といったインフラ類の破綻や放置がめだつようになるだろう。

 国家破綻は国家に頼る人生が最強という価値観を壊滅させるにいたるインパクトをもたらす出来事にあいふさわしいだろう。

 オオカミ少年のような不安を煽ることは本位ではない。そういう本は書店にあふれかえっているからである。

 ただ現実に2008年のリーマン・ショックによる世界的株価大暴落によってヨーロッパのいくつかの国々で国家破綻の危機が現実になり、行政サービスの機能麻痺といった状態もおこっている。ギリシャやスペインでおこっていた事態が日本にも襲来するかもしれない。失業率も20%といった事態はヨーロッパではめずらしいものではない。

 80年のスパンによって継続していたひとつの社会体制、人生価値観が終わることを告げる大きな出来事が、2025年あたりにやってくるかもしれない。このサイクル論がただの夢想なら、いつもと同じような日常と日々、社会はつづいてゆくことだろう。

 しかしながらバブル崩壊以後、制度疲労のかずかず、閉塞状況の現状をこの二十年に目の当たりにしてきたわれわれにとって、一段底の下げ底の可能性をまったく考えないわけにもいかない状態だろう。

 80年周期説は予定調和的に2025年に日本にひとつの終焉をもたらすのだろうか。


日本人はなぜ破局への道をたどるのか ~日本近現代史を支配する「78年周期法則」~ (ワニブックスPLUS新書)日本は80年周期で破滅する昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)「明治」という国家〈上〉 (NHKブックス)時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇 (岩波文庫)


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