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12 07
2013

社会批評

「自然現象」と「イデオロギー」

 友だちや男女つきあいだって思想のもとになされる「イデオロギー」である。自然なものとしてなされるものだが、その行動の基盤にはイデオロギーがある。

 そのイデオロギーの存在に気づかずにいると、ある観念や世界観の条件反射的な情緒だけで反応することになる。「頭」がなくて感情だけで反応する人間を脱することが人間のめざしてきたものではなかったのか。

 友だちづきあいや男女のつきあってってひじょうに自然で、本能的なもの、放ってもいても人は友をつくり、恋人をつくると思われている。自然現象、本能にならった行動だととらえられている。

 だから自然に反した行動をなぜおこなうのか、なぜ自然に背くのかといった問答無用の「盲従の論理」が世間でまかりとおる。

 しかしそれらもある思想のもとに組み立てられた観念によって行動させられているのではないのか。イデオロギーの外に脱したことのない、イデオロギーにそまった人は、この観念に条件づけられていることに気づかない。

 このことで似た例を思いうかべるふたつのものは、慣習や制度にたいする態度と、他人や外界を変えれば自分の感情が修まるという考えかたである。「考え方」や「イデオロギー」、「捉え方」といった心のあり方がすぽーんと抜け落ちてしまって、感情的にだけ情緒的にだけ世界に反応してしまうあり方である。

 子どものころ、わたしは年末年始はなにか「超自然現象」的なすごいことが起きるのだと思っていたのだけど、年をへるにつれ正月はただ「数字の変わり目」にしかすぎないと思うようになったし、「みんながする慣習に盲目的に従う」ということに猛烈に反発を感じていた。正月や慣習というものはひとつの考え方、観念を「頭なし」に従うことである。

 クリスマスなんて近年の勢力をもつ慣習もそうだね。日本人はキリスト教や観念にしたがってその慣習なり行動なりに従事するわけではなくて、情緒的な慣習、「みんながしていること」にただ盲目的にしたがうだけだね。観念やイデオロギーの存在がすぽーんと抜け落ちている。

 慣習と並行するのが日常の捉え方、感情での対処の仕方だね。他人や外界を変えなければ自分の心は治まらないと思う人が多いのだけど、そこには自分の「考え方」や「捉え方」を変えれば心は変わるという考え方がまったくない。

 自分の「心」の存在が忘れられている。他人や外界を変えなければならないと思い込んでしまうのだけど、そう決めつけ、裁かなければならないとしているのは、「自分の考え方」や「捉え方」ということにまったく気づいていない。

 自分の心の存在を忘れているから、他人や外界を変えないことには自分の心は治まらないと思い込んでしまうのである。かけているメガネを忘れて、メガネをさがすようなものである。

 「他人が自分の感情を害した」と思っているのだけど、その怒りの前提となった「自分の心、捉え方が自分の感情を害している」ということにまったく気づいていない。「責任は自分にはなくて、ぜんぶ他人が悪い」である。

 こういう自分の考え方、観念がすぽーんと抜け落ちたあり方って、科学的世界観の捉え方によって生み出されているのかなと思う。

 「目に見える物体だけを信じる」という科学的精神は「物質主義的」な考えを世に広め、心の軽視や無視を生みだした。心や考え方というフィルターの存在を忘れさせた。

 この世には自分の外側に「客観的世界」があって、心は自分の内側にあるだけで、外の世界まで包含しているわけではないというのが科学的精神のあり方。

 視覚的にはわたしとべつに世界はあるのだけど、考え方や捉え方というフィルターは自分の世界をすべてふくむ。自分の心がものごとの良し悪しや善悪を判断している。それがなければ、わたしたちは自分の感情を起動させることはない。

 人間はもともと「他人が悪い」観にそだって、「自分の考え方が自分を害している」という考え方にはなかなか到達しないのかもね。心って見えるものでもないし、「前提」や「枠組み」という心のあり方を忘れることがふつうの状態かもしれないね。

 人はずいぶんと自分の「考え方」や「イデオロギー」、「観念」といったものを忘れてしまう、知らないのかもしれないね。

 そのイデオロギーの存在に気づかないと、行動なり選択なりが「自然現象」でおこなわれるものと思い込んでしまう。「自然なものだ」「自然に反することをおこなうな」という圧政的・強制的な勢力や慣習を押しつけておいて、疑問に感じることもない。

 わたしたちがお得意な新興宗教バッシングってこういう盲目の服従にたいして世間は強烈にバッシングをおこなうのだが、わたしたち自身が自分の「イデオロギー」という宗教を意識していない当の本人たちでないのか。

 それが「自然現象」であって、あるひとつの「イデオロギー」、「観念体系」であることがまったく意識されていない。外側や外部から客観的に自分たちの奉じる観念や信仰を見れないものこそ、「宗教」というものではなかったのか。世界観を「信じる」ではなくて、「世界はそうなっている」と思い込んでいる時点でもう宗教である。

 わたしたちの身のまわりのすみずみ、てんでたいしたことのない行動やあり方も多くが「イデオロギー」の影響下、支配の統治下にあると見なすことは、「無頭的」なあり方を反省させるだろうね。

 人間の世界の多くには「自然現象」があるのではなくて、「イデオロギー」や「観念」に従った、支配された行動や日常が多くあると気づきたいところだね。


▼だれかが命じたわけでもないの慣習にしたがう不気味さに切り込んだ古典的名著だね。
4560024456個人と社会―人と人びと
オルテガ Jos´e Ortega y Gasset
白水社 2004-05

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▼イデオロギー本といえばこの本かな。
412160086Xイデオロギーとユートピア (中公クラシックス)
カール マンハイム Karl Mannheim
中央公論新社 2006-02

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▼外界と心の関係については自己啓発、ニューエイジが教えてくれるのかな。
4763184431愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)
ジェラルド・G・ジャンポルスキー 本田 健
サンマーク出版 2008-06-16

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▼国家のイデオロギー装置といえば、ルイ・アルチュセール。
4582767117再生産について 上 イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー)
ルイ・アルチュセール 西川 長夫
平凡社 2010-10-09

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Comment

独楽は回り続ける事でバランスを取りますが、人々が共有するパラダイムも似た点があるように思えます。
独楽の主軸・ジャイロスコープの指針の位置に該当する存在だけがパラダイム内のイデオロギーなどにも変更を加える事が可能。
中心から外れば外れる程、パラダイム内に変更を加える権限は与えられずに唯従う事のみ強いられる感じ。
それでも従う人達がいるから独楽は回り続けるという。
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