HOME   >>  社会批評  >>  なぜ排斥の恐怖を人づき合いは植えこむのか
12 01
2013

社会批評

なぜ排斥の恐怖を人づき合いは植えこむのか

 異性とつきあったことのない男は気持ち悪いといった嫌悪感や不快感を組み込まれて、男女はそれぞれに男女交際に駆り立てられ、交際にうながされる。

 むかしは「結婚しない人間は性格的にか性的にかおかしなところがある」といった恐怖で結婚を縛られていた。そういう性格的・性的に異常視される恐怖の穴に落ちないためにいかに多くの人が結婚に駆り立てられたことか。人から名指しで害虫の不快感を貼りつけられるのである。

 ふつうの人間関係だって「ひとりで食事をしている人間は人格失格の目印」や「仲間外れにされた者」といった異端視の恐怖が巻き起こっていて、若者は孤立して食堂で食事をとることができない。

 それは女性にたいしてはとくに厳しく、「ランチメイト症候群」といって食事をする友だちがいなければ食事がとれないといった不安としてあらわれている。都市伝説なみには「便所飯」といった孤立が目立つことを恐れて「個室」で食事をとる若者という風説にも語られる。

 人間関係というのは排斥の戒律・恐怖を植え込むことによって、人を不断に人づき合いに駆り立ているようなものである。

 どうして人づき合いや社会参加という人の自由や勝手にゆだねられている行動に、恐怖という感情を植え込まれなければならないのだろうね。人づき合いなんて人の勝手だろ。

 排斥の恐怖を植え込まれるために人は多くの行動の自由や勝手を奪われる。不行動の選択がゆるされなくて、積極的・能動的な参加や行動をうながされる。それは金銭的にもエネルギー的にもかなり活力を必要とするもので、ちょっとした行動、言動のふしぶしにも排斥の恐怖がのぞかせるわけだから、人がこの不安をとりのぞくための行動コストはなみたいていのものではない。

 ひきこもりはこの行動コストの拒否やエネルギー不足ともいえるかもね。排斥される恐怖へ立ち向かう勇気やエネルギーはもう削がれてしまったのかもしれないね。

 日本人だけが非合理な対人恐怖や社会恐怖といった独特の神経症になるといわれるが、排斥の恐怖というものを言語化、意識化していないだけかもしれないね。神の恐れのような非合理な恐れに日本人はとり憑かれているといえるね。

 なぜ人づき合いなんて人の自由だと思われるものに、排斥の恐怖によって行動参加の強制がこんなに強迫させられる感情を植え込まれるのだろうね。

 不参加というもの自体が、人間関係への拒否や否定、批判を暗黙にふくんでいるものだからだろうか。「あなたたちが嫌いである、不快である」といったメッセージを不参加は表明しているかもしれない。集団は嫌われているという恐れだけではなくて、自分たちが奉じる集団参加の活発さや楽しさ、エネルギー支出といったものの価値観の否定や批判も恐れているのかもしれない。

 不参加は集団全員を「敵」や「否定」に回る側にひとりで対峙する関係をつくりだすのかもしれない。集団もしぜんなつながりの関係ではなくて、人為的な価値観や権力のつどいである。不参加はそれへの否定や拒否である。ひとりで敵に回ったのである。人は恐怖に駆られる前にすばやく集団側につこうとするだろう。

 人への無視は攻撃力をもつものだが、それは顧慮するにも値しないというメッセージを発するわけだが、集団への不参加はこのメッセージを集団に発してしまうのかもしれない。集団は排斥の恐怖をもって人を縛りつけるものだから、その恐怖によって集団から離れているといえるのにね。

 これらは所属集団との関係においてだが、男女交際のように積極的に人に迷惑をかけるわけでもない不参加にどうして嫌悪と排斥の恐怖を植えこむのだろうね。だれかが積極的に被害や迷惑をこうむったのだろうか。害虫あつかいされるほど、迷惑をかけたのか。

 性的な関係は恥ずかしいものをふくむという恐れや性的規範もあるのかもしれないね。結婚なんて公的に毎日セックスする相手を手に入れたという表明でもある。性的なものは公的には隠蔽され、恥ずかしがられるものだが、結婚は公的に性的な関係の表明をするわけである。独身者は内なる性的な羞恥や不快感をなぜかひきおこすものなのか。古キズがうずくようなものである。

 しかしそれだけでは害虫あつかいする不快感、嫌悪感の説明には足りないだろう。積極的に孤立者や独身者は恐れや不快感をもよわせるものでないと、人々が口々に排斥の言動を頻出する理由に足りない。

 やはり人と違うことをする人間は自己の行動への否定や批判をふくむという理由あたりが妥当なのか。結婚や男女交際だって人の行動の自由のなかのひとつの選択である。それも価値観やイデオロギーをふくんでおり、ある権力集団に属するか、属しないのかの選択でもある。

 結婚もひとつの信仰団体に入るということでもあり、非参加の罪と攻撃は強いということだろうか。自分たちと違う行動、信条をもつものは敵であり、攻撃の対象であるということか。結婚や男女交際なんて自然なものとしたら、強制力や強迫力を植えこむ必要なんてない。不自然な人為成分をふくむものだからこそ、強制力は発動させられるものではないのか。

 ひところ恋愛至上主義といった人生で最重要で価値のある行動が恋愛であるといった表明と行動がずいぶん席巻したものである。恋愛主義もイデオロギーや信仰信条とするのなら、非参加への非難ははげしいものになるだろうね。

 世の風潮がはげしいときは、「それをしなければ人間であらず」といった強迫観念が渦巻く。恋愛主義は人々に排斥される恐怖を植え込みながら、その勢力圏や圧力圏を増大させた。

 「それをしなければ人間であらず」といった恐怖はずいぶん恐ろしいもので、風潮やブームというのはこういう強迫観念をドミノ倒しのように人々に感染させながら、その猛威圏を拡大させるものだね。この強迫観念にドミノ倒しされないことが人の自由や自律精神の強さだといえるね。

 勢力や人々の価値体系というのは排斥の恐怖を人々に伝染させながら、その脅威網を拡大させてゆくものだね。おおくの人は排斥の恐怖に落ち込まないためにあわててその行動に駆り立てられる。まるで感染して急に行動と人格が変わるゾンビみたいだね。

 人は集団のなかにおいて不断に「キリシタンの踏み絵」を踏まされているものかもしれないね。ささいな選択ひとつひとつが属するか属しないかの「キリシタンの踏み絵」である。

 しぜんで自由なものだって、行動の選択の自由があるかぎり、それは価値観や信条の表明でもある。人はそういう思想・信条の価値体系によって集団なり行動なりを選択する。そこで違った選択をおこなえば、敵や否定、批判にいつ回ってしまうかわからない。このような敵の恐怖に立たされる前の決断の秘訣は、集団から一刻も離れず、人についてまわり、人とひとつも違うことをしないことだね。でもそれも自分が犬や奴隷のような屈辱感や違和感も感じないわけでもないけどね。

 漠然とした非合理な恐怖というのは、言葉で明確に言語化・意識化すれば、その非合理な恐怖に支配されなくなるものである。幽霊が白日のものにさらされれば、恐怖が薄まるようにね。排斥の恐怖を言語化することは人の自由をもたらすものであり、囚われているかぎり、隷属や奴隷化のわだちからは抜けられないものだろうね。


▼子どもなみに敵国を害虫扱いするのは戦時中もそうだね。
4760111190敵の顔―憎悪と戦争の心理学 (パルマケイア叢書)
サム キーン Sam Keen
柏書房 1994-11

by G-Tools


▼人は排斥を恐れるためにひとりになれないのかもしれないね。
4140019271孤独であるためのレッスン (NHKブックス)
諸富 祥彦
日本放送出版協会 2001-10

by G-Tools


▼人は世論や常識というものになぎ倒されて、「自由からの逃走」に駆られてしまうものだね。その頂点がナチズムやファシズムだったという警告があるね。
4488006515自由からの逃走 新版
エーリッヒ・フロム 日高 六郎
東京創元社 1965-12

by G-Tools


▼対人恐怖は日本人だけの非合理なものといわれていた時期もあったけどね。
431401024X他人がこわい―あがり症・内気・社会恐怖の心理学
クリストフ アンドレ パトリック レジュロン Christophe Andr´e
紀伊國屋書店 2007-03

by G-Tools



関連記事
Comment
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top