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11 27
2013

社会批評

恐怖によって社会に隷従しないための感情メソッド

 ツイートの焼き直しになりますが、ツイートはあとに残らないからね。

 京都で女子グループが35歳まで彼女がいない男は気持ち悪いというようなことを話していた。どこの、なにが気持ち悪いのか、分解したくなった。

 モテないことが気持ち悪いのか、女性と積極的につきあおうとしないことが気持ち悪いことなのか。

 この人に恐怖をもよわせる人物評は、けっきょくはだれを縛ることになるのか。恐怖をおぼえた男は女性とつきあう努力を怠らなくなるのか、それとも女性自身が彼氏を継続的に切らさない努力を駆り立てるものか。

 恐怖によって男女交際というものは縛られ、つきあいを強制されるという側面を社会はもっていることになる。

 恐怖によって社会規律を守らせようとする強制力というのはポジティブな理由づけと違って、人を脅しや強迫によって社会規律に服従させる不自然な恐喝力をもっている。

 社会はこのような恐怖によって社会規律を守らせる脅しのテクニック、支配力を行使するものである。脅しや恐喝によって社会に従わせるというのは、あまりにも隷従や従属の屈辱や怒りを感じさせるものだね。

 それはいっぱんの人たちが新興宗教にかんじる怒りとおなじなのだが、「こちら側」のわれわれだって新興宗教とおなじような力学によって社会に支配されていることとなんら変わりはないのではないか。だからわたしは軽はずみな新興宗教バッシングはまったく信用できない。あなたも同じように社会に支配・隷従されているのではないかと思うからだ。

 恐怖によって社会が支配力を行使する例は、幽霊の恐怖にもあてはまる。幽霊というのは罪の意識、あがないの恐れをくみこむ作用をもたらすものだと思う。

 たとえば『四谷怪談』にしても女性を捨てることの報復や恐れを刷り込むものだし、怪談話でおぶっていた子どもの顔がむかし殺した男の顔になったというような話は人殺しの禁忌感情を植え込むものだ。車でひき殺してしまった女の子からドアの前にいるといった電話がかかってくるという怪談話も罪の意識を刷り込むものだね。

 恐怖という感情を植え込むことによって、社会はその規範、禁止を守らせようとする。

 悪いことを感情によって禁止・侵犯しないように反射行動をさせる植え込まれた感情は、悪いことでもないし、いっぱんの社会の規律を守らせるよいはたらきをもたらすのはたしかである。

 ただそこには脅しや恐喝によって屈するという恐怖の支配という不快な側面をもつのは否めないし、恐怖に支配されて服従させられる社会規範というのははたして正当なものなのか。それは人の自由や、恐怖によって隷属させられない人の権利を奪うものではないのか。恐怖支配の社会が理想の社会とはとても思えない。

 だから感情を解く・理解するというセラピーや心理療法は、脅しから社会規律に盲従させられないための自由へのメソッド・方法論としても用いられる用途に使えるものということに気づく。

 宗教者のクリシュナムルティが恐怖から自由になる心理セラピーなどを教えていたのは象徴的で、宗教というのはある意味、既存社会の恐怖社会から自由になる方法を説くものである。

 宗教というのは、既存社会の恐怖洗脳を解くという役割の側面も担っているものなのだろう。仏教も世俗からの脱俗を説いてきた意味では、既存社会の価値感・支配イデオロギーからの洗脳脱却の用途もあるわけだ。もっとも「こちら側」のわれわれはそれが宗教団体の隷属なのだと非難するのだけどね。おたがいは隷従を非難するけど、おなじような隷従方法をくみこまれているという構図だね。

 クリシュナムルティの感情脱却のメソッドは感情を言葉や怒りによって抗うものではなく、自然に衰えるまで無視する・スルーするという方法を提唱している。感情を抗うものとして見なしてしまうと、感情は力を与えられ、感情の力はますます強まってしまうという側面があるからだ。

 感情を無視するという方法はその先の怒りや感情をもたらした思考や認識のありかたまで問うようにさせるもので、はたして思考や認識といったものは「存在」するのかという問いまでもたらす。思考や認識って現実に存在するものなのか。頭の中だけにある「虚構」や「幻想」ではないのか。

 人間の思考というものは「自動機械」のようなもので、放っておけば思考は自分の意志とかかわりなく自然に無限にわきあがってくる自分の意志と関係のない「機械」のようなものである。人はその思考の噴出に支配されているというのがクリシュナムルティであるとか、神秘思想家のグルジェフが考えた人間の思考隷従である。

 これは禅や仏教が考えることをやめてひたすら頭を空っぽにする方法とおなじであり、禅や仏教も思考や言葉の支配から脱却する方法をめざしていたものだ。思考や言葉に支配されているありかたから脱却させるものが禅や仏教なのである。

 恐怖も感情を解くこの方法によって、同じように解けるはずである。宗教者は既存社会の隷従を解く方法を教えてきたと考えることもできるのである。もっとも宗教の隷従にまた囚われてしまったら元も子もないのだけどね。

 思考や感情からの自由は、自然な感情として無意識にくみこまれた社会規律からの自由もふくんでいるものなのである。恐怖からの自由は社会支配からの自由ももたらすものなのである。


▼幽霊の罪の意識はこちらの本から。
4794212666日本人はなぜいつも「申し訳ない」と思うのか
長野 晃子
草思社 2003-11-21

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▼クリシュナムルティ
4892032840恐怖なしに生きる
J. クリシュナムルティ J. Krishnamurti
平河出版社 1997-03

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