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2013

日本崩壊80年周期説

民衆思想史というより「民衆搾取史観」――『明治の文化』 色川 大吉

4006001681明治の文化 (岩波現代文庫)
色川 大吉
岩波書店 2007-01-16

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 色川大吉は「民衆搾取史観」といったらいいのか、民衆はしいたげられ、犠牲にされてきたという視座をもつようである。「民衆被害者史観」とでもいえるか。「民衆思想史」という名称ではいまいちインパクトが弱いね。

 だからとうぜん「明治栄光史観」のようなものを書いた司馬遼太郎と相性がわるい。司馬遼太郎には民衆は犠牲にされてきたという視点はあったのだろうか。国家の栄光や繁栄に同一化できる人はこの視点がすぽーんと抜けるのか。

 庶民とか民衆に注目した人は、たとえば織田作之助の『わが町』のように国家の誇りの犠牲にされてきた庶民という批判を庶民の視点からできるわけだね。とはいっても民衆に注目した人でも柳田國男のようにナショナリズムに合流したとされる人もいるのだけどね。

 この本が出されたのは学生運動がもりあがっていた1970年で、このような「民衆犠牲者史観」といったものがその時代の底流にあったのだろうか。いっぽうでは高度成長期下において、司馬遼太郎のような明治の栄光を説き、昭和の経済の栄光を鼓舞したような人もいるのだけどね。

 この本は「民衆搾取史観」によって書かれているということをわきまえておかないと、明治の農村の草の根の自由民権運動の熱中の、名もなき農村の人たちの足跡を追う意味がなかなかわからない。そのことを民衆が蜂起した秩父事件の章までわたしは気づかなくて、なかなかこの本のおもしろみが出てこないと感じていた。

「温厚で、禁欲的で、がまん強く、「お上」をなによりも畏懼してきた山村の人民が、どのようにして多年の消極主義をふみこえ、昂然と権力に立ち向かうところまで転換できたか」



 民衆はしいたげられ、犠牲にされているのにお上に唯々諾々としたがってなぜ立ち上がらないのか、といった民衆への諦念や怒りがこの言葉に底流にあるのだろうね。

 近いところではカレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』にも「従順な中産階級」という章があって、日本人は経済マシーンに囚われる「生産マシーン」という批判があるのだけど、日本の民衆は不満があってもなぜ沈黙しつづけるのかという問いがあった。

 さっこんの「ブラック企業批判」のようなものも会社対個人のような対立構造があると思うのだけど、日本人は集団や組織に一体化して、その栄光や繁栄に埋没・妄信して、個人の幸福や自律をなぜ得ようとしないのかとはつねづね思ってきたことだ。

 色川大吉はいっている。

「日本の大衆はこれまで、べつに「国体」や「家族国家」のおかげで生きてきたわけではない。かれらは自分独自の考えで動き、ひっそりとくらしてきた。かれらの「家」は明治民法で守られたり、強化されたりする必要もなにもなかった(かれらの家長は戸主権をたてに威張るほどの権力や余裕はなかったし、かれらの家族は夫婦親子、家中で働かなければならないほど貧しかった)。いわんや、国家や天皇に意義づけてもらえるような誇るべき家系も歴史的因縁もべつになかったのである」



 民衆や庶民といった人たちは国家と無縁に、国家と関係なく生きてきたはずである。それなのにどうして明治や昭和にはおおきな変節をへたのだろう。

「国家や皇室が、数百万戸の大衆の「家」に、そのもっとも大事なもの(家族員の生命)をまで犠牲として求めるに足る、いかなる思想的根拠を当時もちえたか。封建時代において大名が歴代恩顧の家臣から不断に「忠誠心」をひきだすだけでも容易ならぬ努力がはらわれたきた。いわんやそうした親しさもなく、恩顧の関係もない大衆から国家が自発的な忠誠心をひきだし、それを持続させるということがいかに至難なわざであるか、想像にあまりあるだろう」



 わたしたちはどうして個人や家族から、国家や会社に同一化する自己をそだてたのだろう。わたしたちが個人や家族であるのならまずなによりもそれらを大事にするはずである。しかし国家や会社に自己をたくす生き方しかこの国ではできない。色川大吉の問いはいまも解かれないままである。

 明治38年、東北に冷害がおそった。大凶作になり、家族が餓死した二例を紹介した上で、色川はいう。

「『土』(長塚節/1912年)にも『南小泉村』(真山青果/1908年)にも、農民が自分の村の村びとにたいしては、どんなに窮迫しても憐みを乞うたり、蔑まれたりすることを身を斬られるよりも辛いとする観念が見られる。

他人に食を乞うを恥じるという自己規律はいったいなんであろうか。なぜ、人民は他の群村に出れば乞食までして延命をはかるのに、自村では餓死の道をえらぶのか。村落共同体がほんとうの助けあいの共同体であるならば、むしろ自分の居村にこそ救いも求められよう」



 この自己規律は通俗道徳として人々を縛り、支配的思想に基盤にくみこまれることになるといっている。

「こうなると民衆は自己のモラルをまじめに実践すればするほど、支配体制を下から支える結果になり、自分の出口をいっそう見えにくくする悪循環の過程に入りこんでしまうのである」



 このへんから解き明かさなければならないのかもね。


 こんにちでは「民衆搾取観」や「民衆犠牲観」といったものはあまり表面にあがってこなくなったかもしれない。わたしたちは国家ではなくて、「会社」にじゅうぶん搾取されて犠牲にされていると思うんだけどね。その後ろ盾は国家であるはずなんだけどね。

 人びとはアブナイ対決をえらぶより、ポップカルチャーや消費、無政治性に幸福をもとめる道をながくえらんできたのだろうね。「のほほん」と生きてゆければハッピーだ。安全で平和なんだろうけどね。でも手のひらはどんどん狭められているのかもね。

 なお、わたしにとって色川大吉といえば、佐高信との対談集もおさめられている『司馬遼太郎と藤沢周平』という本に強く印象づけられた人だ。国家と個人の対立は、げんざいは会社と個人の対立というフェーズに納められているとしっかりと見るべきだろうね。


司馬遼太郎と藤沢周平―「歴史と人間」をどう読むか (知恵の森文庫)明治精神史〈上〉 (岩波現代文庫)民衆史―その100年 (講談社学術文庫 (997))日本の近代化と民衆思想 (平凡社ライブラリー)現代日本思想論――歴史意識とイデオロギー (岩波現代文庫)


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