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08 10
2013

社会批評

感情は「人間らしさ」?、「災厄をもたらすもの」?――インド映画『ロボット』を見て

 アメリカ映画や日本のマンガでロボットは感情を知らない「人間らしさ」をもたない悲しい機械とえがかれるのがふつうだったのだが、インド映画の『ロボット』では感情や愛をもつことは「災厄をもたらす」ことと描かれているのがおどろいた。

 インドというのは感情を否定する考え方、風土をもっているのだろうか。



▲後半40分の増殖ロボットのアクションシーンは見る価値あり。

Gyao!で9月4日まで無料で見られます。三時間の濃すぎる映画だけどね。『ロボット


感情の賛歌と侮蔑の歴史

 アメリカ映画では感情をもたないロボットは感情をゆたかにもつ人間の対比としてえがかれ、それゆえに感情をもつ人間はすばらしいという「感情賛歌」がうたわれるのがふつうである。ロボットが人の涙を見て、「なぜ涙を流すのか?」といった質問をするシーンはおなじみだろう。だからこそ人間の感情はゆたかで幸福なのだと。

 感情は自分でコントロールできないがゆえに「自分らしさ」、「自分独自の個性」をあらわすものだとこんにち考えられている。感情こそが人生の基盤という考え方はこんにちの社会をひろくおおっている。

 しかし近代は違ったはずである。「感情」は動物や非理性的なものに属するもので、「理性」や「知性」をもつことが人間を「人間たらしめているもの」、「文明をもつ人間の条件」とされていた。「感情」をもつことは劣った、遅れた人種がもつものだと考えられていた。

 だからいまでも女性は「感情をおもに生きる」人としてとくに侮蔑の対象となる。理性的にことを運べない動物だという侮蔑である。

 「理性」と「感情」は、「文明」と「未開」の差別図式として近代の進歩史観のなかでながらく力をもってきた。感情は理性にたいして排除すべき、軽蔑されるものとして、近代には追いやられていた。だからこそこの図式は、感情は自分でコントロールできない「自分らしさ」の元であるという根拠をつくったのではないのか。


感情革命

 しかし60年代あたりを境に理性より感情を主体に生きる人生観が台頭してくる。ヒッピーやカウンターカルチャーの風潮のなかから生まれた流れだろうか。

 SFドラマの『スター・トレック』は66年からはじまったが、ミスター・スポックが感情をもたない理性的なバルカン星人として、感情をゆたかにもつカーク船長やドクター・マッコイらと対比されて、笑いをさそっていた。スポックは感情をもたないゆえに感情のわきあがる沸点をつよく感じさせたのである。理詰めの論理や理性が感情と対決させられたのである。

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 ▲感情をもたない理性の人ミスター・スポック

 この時代あたりから理性や知性の正義が疑われはじめ、感情こそが人間らしさ、人生をゆたかに生きる土台だと考えられるようになってゆく。それは知性や教養の崩壊ももたらしたのだろう。

 感情ゆたかにたのしんで生きるといった人生観は、テレビのお笑い番組の興隆などで本格化した流れになった。「ネアカ」と「ネクラ」などといった対比で、知性や教養は「ネクラ」なものとして放逐された。

 ロボットは感情をもたない悲しい機械だ、だから感情をもつ人間は情動ゆたかな潤いのある人生を生きられるのだといったテーマが映画やマンガでおおく語られることになった。

 感情は侮蔑され、動物として差別されるものから、「人間らしさ」「自分らしさ」をつちかう人生の重要な基盤として祭り上げられるようになったのである。

 もはや「文明の進歩」といった図式のなかでわれわれは生きていない。ひとむかしまえなら「動物」や「未開人」として軽蔑されていた感情のなかに人生のゆたかさ、自分らしさを見出す時代になったのだから。「動物」を生きているのである。


西欧の進歩図式とインド映画『ロボット』

 インド映画の『ロボット』は西欧の進歩図式のなかから外れているのか、よくわからない。しかしここでは愛や感情をもつがゆえにロボットは悪や破滅に向かってすすんでゆくのである。

 感情は「災厄をもたらす」ものなのである。愛や感情をもったがゆえにその叶わない気もちは破壊や戦争状態になってゆく。

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 ▲愛を得られないがゆえに殺人や略奪に手を染めてゆくロボット

 われわれがなじんでいたロボットの図式がここではえがかれず、感情や愛をもたないロボットは哀れで悲しいという捉え方はない。感情は破滅の図式なのである。これはヒンドゥー教や仏教の禁欲や脱俗の精神からくる考え方なのだろうか。

 感情こそが世の中に災厄をもたらすもの、破壊や戦争をもたらすものという考え方がこのインド映画『ロボット』にえがかれているのではないのか。

 西欧の進歩図式にいるわれわれはこの愛や感情の否定のメッセージにどう向き合うのか。


感情は捨て去る・変えられるという考え方

 感情は人生の基盤だと考える流れのほかに、感情はコントロールすべきだ、捨て去るべきだという考え方もアメリカの精神世界のなかで生まれてきた。

 感情を主体に生きてしまうと感情の荒波のなかにもまれる小舟に翻弄される人生を余儀なくされてしまう人も増えてしまう。感情賛歌の時代の犠牲としてうつ病の増加はあるのではないのか。

 認知療法ではネガティブな考え方をポジティブに書き換えるセラピーが教えられるし、自己啓発やニューエイジの流れでは感情を捨ててしまえといった仏教やストア哲学のリニューアルの流れも興隆してきた。

 ここで捉えられている図式は感情は思考によって生まれ、その思考をコントロールすることによって感情は変えられるという考えである。感情を主体においてしまうと感情はコントロールできないばかりか、感情の激流にのみこまれてしまうことになってしまう。

「「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。「自分は損害を受けた」という感じを取り除くがよい。そうすればその損害も取り除かれてしまう」



 ストア哲学のマルクス・アウレーリウスの言葉だが、思考をとりのぞけば感情もなくなってしまうことが語られている。苦痛や災厄は私たちの判断、考え方のなかにしかないという仏教と同じ考え方が語られている。

 ここでは感情はわたしの主体でもなく、人生の醍醐味でもなく、とりのぞくものとして考えられている。感情のあるうるおいのある人生は目標ではないのである。


感情とどう向き合うべきか

 われわれの社会では感情のない人間は非人間的で、犯罪者のような人格になると思われている。思いやりや同情といった感情が人を救い、憂愁に満ちた人生の実りをもたらすのだと。感情のない人間はロボットである。

 しかし感情にたいする捉え方は近代の「理性/動物」図式では侮蔑されるものとして考えられてきたし、うつ病の増加は感情を主体に生きる時代の産物ではないのか。感情は手放しで賞賛されるものとはかぎらないのである。『ロボット』はインドからの西欧の感情賛歌にたいする挑戦ではないのか。

 わたしも感情は虚構をもとにした虚構の絵空事だと思っている。それは映画や漫画の「虚構」と同じレベルの、じっさいには存在しない「仮構」の出来事に一喜一憂しているだけと考えている。「空想」の世界に感情しすぎなのである。

 感情賛歌の時代にインド映画『ロボット』は挑戦してきた。愛すらも否定する宗教的メッセージを送っているのかはわたしにはわからない。

 わたしは感情を主体におき、人生の基盤にする考え方は危うくて仕方がないと思うのだが、憂愁の感情に愛着をおく感情賛歌、感情主体の時代を人びとはまだこれからも生きるつもりなのだろうか。


4790706389感情の社会学―エモーション・コンシャスな時代 (Sekaishiso seminar)
岡原 正幸 安川 一 山田 昌弘 石川 准
世界思想社 1997-03

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