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06 08
2013

書評 小説

批判は現実適応を苦しめるね―『アメリカ文学の問題意識』 滝川 元男

61kangO7qjL__SL500_AA300_.jpg アメリカ文学の問題意識 (1977年)
 滝川 元男
 南雲堂 1977-06

 by G-Tools


 こういう文芸評論に期待するのは、「この作品はこんなことを語っていたのか」という新鮮な解釈のおどろきであり、ストーリーやメッセージを読んでこの本を読んでみたいと思わせるカタログ的要素のふたつであると思う。

 この本で読んでみたくなったのは妻と子どもを捨てて逃げる男の話のアップダイクの『走れ、うさぎ』くらいかな。ソール・ベロウの『宙ぶらりんの男』とか『この日をつかめ』は関心があるのだが、いまひとつ興味をひきだしてくれない。

 この本は77年出版の古い本である。「神との対話」「自己との対話」「社会との対話」の3章に分かたれている。「神との対話」は神への信仰をまったくもたないわたしはいつも理解できかねる話である。

 ちなみにわたしは村上春樹の影響からアメリカ文学はよく読んでおり、ヘミングウェイとかスタインベックの2,30年代あたりの作家が好きであったり、ポストモダン小説あたりに興味があった。その後は人文書ばかり読むようになったのだけどね。

 ざっと興味をひかれた文章を抜き出す。

「ヤンキーズムが生みだした産業主義的な社会体制は、南北戦争後、その中央集権的な性格を急速に露骨化して、西部のフロンティーア・マインドにはぐくまれた自由・平等・独立といった個人主義的でデモクラティックな考え方を嫌悪し、アメリカ全土をその強力な社会機構をもって支配し、人間をモノとして考える新しい人間観を樹立することになる」



「ふたたび人間の自由を、個としての人間の尊厳を、きわめて強力な非人間的社会機構のなかから奪還する苦闘をもたねばならぬのであり、そうした気運はマーク・トウェインの『ハックルべリ・フィンの冒険』あたりから、明らかに始まっている。

ハックはその時以来〔どたらをむいても、文明の足かせが彼を閉じこめ、手足を縛りつける〕のを感じて、ついに三週間の英雄的な忍耐ののち、ふたたび宿無しの浮浪児になってしまう」



 ハックルベリ・フィンは児童文学だと思っていたのだけど、産業主義に対立する価値観を追い求めていたのだね。

 わたしも産業社会に対する不快感をずっともっていたのだけど、さいきんはあまりにも大きくて抽象的な問題に、個人的な生活の接合面がうまくつなげなくなってきた感じかな。金を稼いでまともな人間に見られなければならないという要請に、産業主義批判は霞のように思えてしまう。


 アップダイクの妻と子どもを捨てる『走れ、うさぎ』ではこういわれている。

「われわれは彼の行動を支配するものに、二つの相反した力があることに気づく。一つは、世間のしがらみを是非とも断ち切って、テレビでみたミッキー・マウスの三銃士の一人、ジミーの言う〔自分自身であれ〕という強烈な願望であり、いま一つは、その世間のしがらみのなかにわが身を安住させたいという、社会動物としての習性的な力――あるいは孤独を本能的に嫌悪する人間の原生的な力――である」




「〔自分自身であれ〕という願望が、実はテレビの安っぽいコマーシャルからの思いつきであるという皮肉と共に、われわれがそのあだ名にふさわしい、なんとなく<うさぎ>を連想する容貌を彼に重ねることによって、むなしい結末と言うよりは、むしろ滑稽な――しかもどことなく陰気な――結末になるのである」



 男が家庭の重みから逃げ出す解放譚だけではなくて、その願望自体もコマーシャリズムに感化されたものであるという皮相な事実まで杭打たれているのね。


「今日のアメリカ文学は、サリンジャー、ベロウ、ママラッドなどのユダヤ系作家の活動によって支えられていると言っても過言ではない。それは彼らが<われわれの現実とは何か>そしてまたわれわれの<自己存在の主張は可能か>という問題に、従来のヘミングウェイやフォークナーとはまた違った観点から、もっと鋭く明確な意識をもって、とりくんでいる」



 アメリカ文学のテーマはこのふたつに単純化することができるのかな。


「アメリカの物質文明が強力なマス・プロダクションによる生活の均一化を強制するにつれて、こうした<病める>村落はますますその没個性的で保守的な性格を強めて、村落の内面的な腐敗と沈滞は、外面的な生活の様相にまで明らかな反映をみせてくる



 シンクレア・ルイスの『本町通り』はこういう画一化・均質化の問題をとりあつかっていたね。わたしも大衆社会論でこのあたりの興味はたいへんかきたてられたのだけど、『本町通り』が類似のテーマをあつかっていたとはね。


 シャーウッド・アンダスンはわたしにとっては好きな文体の作家であるが、テーマ自体はよく読みこめていなかったようだ。

「絶えず機械の前で働く男性は、いじけており、粉砕されており、卑屈であり、絶え間なく劣等意識を強制され、機械時代以前の、ものを自分の力で作り、手で使用する自分の道具を愛し、自分の力に自信をもつ、人間としての尊厳があり、しかも謙虚であったところのmanlinesはすっかり失ってしまっているのである。…その部分品である一個の人間がこわれたならば、捨ててまた新しくとりかえればよい」


 

「塗料製造業者としての単なる経済的成功は、売淫行為であり、また売買という日常業務は、自己破壊であるという気分に彼は圧倒されたのである。

アメリカのマスプロや通信販売や月賦販売に順応して生きるということは、<人間性>を社会機構に売る売淫行為であり、同時にその行為は人間性の崩壊をもたらすもので、アンダスンはアメリカの物質文明に、彼自身が蝕まれてゆくことを知り、<自己発見の旅>にでようとしたのだと、想像することもゆるされるのである」



 わたしもこういう批判意識はもっていたのだけど、金を稼ぎ労働しなければならない現実と日常の世界においては、そういう批判意識は虫けらのようになぎ倒されるしかない現実の圧倒的な力を感じざるを得なかった。 文学的憂鬱さを抱えもっていても、金を稼ぐという現実的な場面のまえでは、益することより、つらくて不適応なことばかりだ。

 こういう繊細な感受性をそだてる文学や哲学は現実適応を困難にするばかりで、ひとりで悦に入る文学的憂鬱を囲うだけではないのか、と悲観的に思わざるを得ない。けっきょく、反抗心や批判心は現実に負けたのさw


ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)走れウサギ (上) (白水Uブックス (64))本町通り 上―キャロル・ケニコットの物語 (岩波文庫 赤 319-1)ワインズバーグ・オハイオ (新潮文庫)

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