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05 22
2013

書評 労働・フリーター・ニート

他人の頭の中のわたしが、わたしの死をふせいでくれる?―『働くことがイヤな人のための本』 中島 義道

4532195306働くことがイヤな人のための本(日経ビジネス人文庫)
中島 義道
日本経済新聞出版社 2010-02-02

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 2001年に出たときちょっとしたベストセラーとなったのだが、読まなかった。たぶん自分の好きな哲学の教授になっている人に単調で単純な仕事の苦しみなどわからないだろうと思ったのだろうか。

 キレイごととかタテマエの奨励なんてまちがってもいわない中島義道のことだから、ネガティブな仕事観をつきつめてくれるね。

 ちょっとひきこもり状態になっていたことやふつうの会社面接の話とか、予備校講師時代の話とか、こういう寄り道や哲学教授でないころの話も聞けて、この経験から中島義道はこういう仕事がイヤな人のためにアドバイスできると思ったのだろうね。

 でも大学の教授になって本も出している「成功者」なのだから、ちまたのふつうの仕事へのアドバイスが妥当なのかという反感はやっぱりあるね。

 この本は5章までが序章のようなものかもしれないね。

「彼(女)が世間的にはなんの価値ある仕事もなしとげなかったからこそ、そしてみずからそれを痛いほど知っているからこそ、その人がただ生きてきたことが光を放ってくる。彼(女)は、死ぬさいに「俺(私)はこれをなしとげた」と自他に語って満足することはない。彼(女)は何もなしとげなかった。だから、自分の人生を世間的な仕事と重ね合わすことなく、剥き出しのまま受けとめることができるのだ。

世間的な仕事において何もなしとげなかったからこそ、死ぬ間ぎわに「俺(私)の人生は何だったのか」と真剣に問いつづけることができるのだ」



 逆説的なことをいうのだが、中島義道は社会的価値とはなんだろうか、人はなぜ社会的価値をめざすのかということのひとつの解答をもちだす。

「仕事に成功した人ほど、その仕事に過分の価値を置いてしまう。

…それは、仕事によって死を幾分でも克服できるという錯覚だ。自分が死んでも、みんなから愛されているこの映画作品は残る。自分が死んでも、自分が孤軍奮戦して守ったこの緑の山は残る……という錯覚さ。

たしかに自分の仕事は自分の死後数百年はもつかもしれない。

…しかし、それが何だろう? 宇宙論的時間のうちに置いてみるとき、いかなる仕事でも、自分の死後ほんのちょっとのあいだ長生きするだけなのだ」



 マルクス・アウレーリウスもいっているね。

「死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上がっては消え行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにはその記憶全体が消滅してしまうことを」



 人は勘違いしてしまうのだろうね、死後の名声や名前が残れば、わたしが死んでもわたしは生き残ってゆくといった思いをもつようになる。だけど死んでしまえば、わたしはその後のいっさいを知ることはできないし、もうわたしは消滅してしまうのである。

 無や死してしまう恐怖を避ける方法として、人は死後の名声や名前を残すことによって、その無や消滅を避け得ると思ってしまうのだろうな。だけどもう消滅してしまったわたしにはいっさいあずかり知らぬことだ。

 社会的価値を得るというのはこういう無や死してしまう「わたし」をその消滅から救い出してくれるなにかだと思わしめてしまう関連の近いところにあるのかもしれないね。

 中島義道は死してしまう人生の意味と恐怖に生涯こだわりつづけた哲学者なのだが、そういう死の恐怖から解放されるには、生を無価値だと思うことが救いだと気づくようになる。死が怖いのはこの人生に価値があると思うからであり、「生きていること」に価値があると思うからである。逆説的に人生や生を無価値に思えば、死も不安にならない。

 社会的価値を盲目にわたしたちが求めてしまうのは、この無や死してしまう存在であるわたしたちが、その消滅をふせぎたい気もちと通じるものがあるのかもしれない。そして死後の名前がそうであるように、わたしたちはもう「存在していない」のである。あるいはそれはたんなる「想像上の気休め」としかいいようがないものかもしれない。

 社会的価値のある仕事ってこの死の恐怖に立ち上げられる無からの逃走が根底にあるのかもしれないね。そしてその価値も死後の生のように「むなしい」ものなのである。

「倫理学の試験問題において力強い言葉によって試験官をうならせたとしても、彼(女)はただよく生きることについてよく書けただけであって、わずかでもよく生きたのではない。逆に、いかに言葉でうまく語れなくとも、いかなる倫理学の教授たちよりもよく生きた人、よく生きている人はいると思うよ。

 こうした転回を経ると、仕事の成果においては二流でも三流でもいっこうにかまわないことになる。それは、よく生きるという第一目標を実現する手段にすぎないのだから。一流の仕事をした人がよりよく生きることを実現しているのではない。

…一流の仕事とよく生きることとはまったく関係のないことだ。レオナルド・ダ・ヴィンチや紫式部がよく生きたわけではない」



 社会的価値とよく生きることをべつのものとして捉えるわけだね。人は社会的価値によりよい人生を描いて見てしまうのだが、よりよく生きることは社会的価値によって証明されるのではない。

「ただ何かしたいことを自分のうちで確認できれば、そしてそれが本物であれば、しかもそれを続けられる場が与えられれば、その人は幸せだということだ。

生活はどうにかなる。いや、その場があるからこそ、新聞配達員もガードマンもNHKの集金員もそれほど苦にならない。その場があるからこそ、社会的に下積みの地位に甘んじていても、彼らは自信をもっている」




 「社会的価値=死後の恐怖=死後の名声」という一連の連関を見させてくれる中島義道の指摘は、なぜ社会的価値をもとめてしまうのかという問いと解答をうかびあがらせるね。

 人に名前をおぼえてもらうことによって「自己の価値をうかびあがらせたい=死後の生を手に入れたい」というわたしたちの恐れがあるのだろうね。でもわたしが死んでしまったらそんな名前はもはや意識のないわたしにはあずかり知らぬことだ。

 「自我」は「想像上」のわたしは、そうやって自己が消滅してしまうことをふせごうとするのだろうね。そしてそんなものはもともとなかったのだ、つぎつぎとは浮かんでは消える「思考」や「思い」の妄想でしかないのである。

 他人の頭の中にわたしが思い浮かべられることが、わたしの「価値」を保証するという思い込み・錯覚にわたしたちは捉われているのだろうね。そしてそれは死後の生が不可能であるように、現在においても不可能や錯覚ではないだろうか。まいったねw

 仕事論の本だと思っていたら、自我論になったね。これはグルジェフとか神秘思想の自我論なんだよね。


▼想像上の自我論はこの本をおいてないと思いますが、仕事論からここまできてしまったね。
4795223661グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門
ハリー ベンジャミン Harry Benjamin
コスモスライブラリー 2000-09

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4101467307人生に生きる価値はない (新潮文庫)
中島 義道
新潮社 2011-09-28

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4003361016自省録 (岩波文庫)
マルクスアウレーリウス
岩波書店 2007-02-16

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