HOME   >>  社会哲学  >>  「虚構」は「虚構」でしかないものか
03 03
2013

社会哲学

「虚構」は「虚構」でしかないものか

 『泣くな、はらちゃん』というマンガの登場人物が現実の世界にとび出てくるドラマがある。

 「虚構は虚構でしかないのだから、虚構に埋没してはならない」という意見が優勢だと思うのだけど、人間の現実は思った以上に虚構に侵食されている。はっきりいって人間は「虚構」でしか現実を認識できないと思ったほうがいいのではないか。

 われわれの多くは都市に住んでいるのだが、都市は人々の「空想」が現実につくりだされたもので囲まれているものである。家や道がつくられるのはまず設計という「空想」をへてからつくられる。

 都市というのはディズニーランドのような空想の中の世界に住んでいるのと近い。こういうのを養老孟司は「脳化社会」とよんで、制御・統制可能な世界からそれが不可能なものを排除するのが都市や文明だといった。自然や病気、死などである。われわれは現実の世界から見たくないものを排除した空想の世界にすでに住まわっているのではないか。

 「現実、現実」というが都市は見たくないものが排斥された空間に囲まれているわけだし、人々がしたがう慣習や制度もひとつの「フィクション」なのではないか。

 オルテガは慣習を分析した『個人と社会』において人を制止する警官は自分の意志でおこなっているのかと問うている。それは「国家」や「警察」というフィクショナルな機構がかれの身体を動かしているのではないかと。

 われわれの制度や機構というのはすでに「フィクション」ではないのか。店員がお客に対応するとき、かれは店員という役割・フィクションを演じているのではないか。学校の教師が教師なのは、学校と教師というフィクションをみんなで約束しているから、かれは教師なのではないのか。もうひとついえば、教師が生徒にものを教えられるのは、生徒が無知で蒙昧な役割=フィクションの立場を守ってくれるからではないのか。

 家族だった父や母、兄弟を演じるフィクションではないのか。われわれは日夜、フィクションを演じている演劇者ではないのか。もし出生の知らない子どもがじつの父母や兄弟とどこかで出会っても、かれは家族と見なせないだろう。

 自分と見なしている自己ですら、「フィクション」や「物語」として自分を捉えているのではないか。過去の記憶や心象だけでは自己をつなげられない。自己を「物語」として記憶・解釈するから、一個の連続した「自己像」がつくられるのではないのか。

 そもそも過去は現実ではない。すでに過ぎ去った、どこにもない記憶だけである。この世界にないという意味で、ひじょうに「空想」や「虚構」に近い存在になる。われわれの自己像というのはそういう空想の世界で組み立てられるものだ。その記憶すら多くは取捨選択された偏った、ひとつの「自己物語」にすぎないのであって、「あれかこれか」の選択も可能であったはずである。「わたし」とはひとつの解釈であり、それはもう「空想」であり、「虚構像」である。

 神秘思想家のグルジェフはそのような虚構の自己像はなぜ生まれたかというと、自己の価値を維持したり、上昇させるために存在するといっている。自己像はその価値をなくすと生きられなくなってしまう。これは現実でも同じである。存在価値をなくさないために自己はたえず「自画自賛」のキャンペーンをおこなわなければならない。頭の中でぶつぶつ人の失礼な扱いや無礼な言動をいつまでも蒸し返すのはそのためである。

 自己をフィクションとして捉えているなら、われわれが人間関係や出来事を捉えることもひとつの「フィクション」だといえる。それはひとつの捉え方だけではなく、ほかの捉え方もできるのであり、ポジティブにもネガティブにも、自分に都合よくも、自虐的にも捉えることができる。しかもそれはこの世界にはすでに存在しない。存在しない頭の中だけのことはすでに「フィクション」ではないのか。現実にあったことではある。だけどそれはもう「解釈」でしかないのではないか。

 人間の頭にあることはほとんどが「空想」や「フィクション」といっていいものではないのか。思考自体が「空想」や「フィクション」なのである。

 頭の中にあることが空想やフィクションでしかないことに気づいたら、わたしたちは自分をがっしりとつかんでいた「ただひとつの現実」という鎖・重みからのがれることができる。それは選択可能なものになる。

 また空想にすぎないのなら、その履歴や思考を消すことができる。思い出さなければ、考えなければそれは存在しないし、わたしを苦しめることもない。借金や追いつめられた現実がなくなるという意味ではない。それを考えない時間をもっと増やして不幸な気分を減らすことが可能になるし、ポジティブな可能性も模索できる。ひとつの現実でも解釈や気分でおおいに変わるものである。

 われわれはずいぶん虚構の中で生きている。物語は虚構でしかないというけれど、虚構は人間の認識世界ばかりか、社会制度や慣習、都市の中まで侵食している。虚構の中でわれわれは暮らしている。

 夢の中で現実に殺される『エルム街の悪夢』という映画があったけれど、われわれは「夢」のなかでもだえ苦しんでいるといえる。仏教ではそれを「迷妄」や「虚妄」の世界といった。「虚構」や「フィクション」の世界で生きているということだ。

 虚構というのは物語だけの世界ではない。わたしたちの日常、世界のすべてをつつんでいる。



▼いっていたのは「共同幻想論」ということね。
 「共同幻想論」を知るためのブックガイド


▼参照文献
唯脳論 (ちくま学芸文庫)個人と社会―人と人びと「私」の心理学的探求―物語としての自己の視点から (有斐閣選書)グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門ものぐさ精神分析 (中公文庫)

関連記事
Comment
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top