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01 12
2013

レイライン・死と再生

オリエントから見える日本の宗教・習俗―『輪廻の話』 井本 英一

978-4-588-35210-2.jpg輪廻の話―オリエント民俗誌
井本 英一
法政大学出版局 1989-01

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 井本英一はペルシアやイラン、オリエントの宗教や民俗の比較から、日本の宗教民俗をうきぼりにした人である。中国からの比較では距離が近すぎて見えないものも、オリエントの比較から見えてくるものがたくさんある。どうも原始宗教は世界的に共通した世界観が共有されていたようだ。

 この本は雑誌や新聞に発表されたものを集めたエッセイになっているが、井本英一がこだわったのは「死と再生」の世界観であり、季節行事にそれがどのようにあらわれているかということだと思う。わたしもなぜか「死と再生」の世界観にひかれるのだが、世界観の根本を規定しているからだろうか。レイラインからはじまったわたしの興味はまだ満足させられない。

 この本が出たのは1989年であり、それ以前はシルクロードとか世界の火薬庫とよばれた中近東が世界史的にひじょうに注目されていた時代だった。このころどうしてオリエントが注目されて、いまはいぜんのように関心を集めなくなったのだろう。西洋化にともなって日本が中国からだけではなく、オリエントからも文化伝播をうけていたという劣等感の解消が一役買っていたのだろうか。

 いぜん井本英一の『飛鳥とペルシア』を読んだことがあり、死と再生の世界観にひじょうに学ぶものがあったと思うが、この本の考察はすこしそこまでには達していなかったように感じた。むかしの人は季節をどう定位したかのようなテーマであるようだが、このテーマは死と再生の世界観自体を深くえぐらないからだろうか。

 いくつかの考察を抜き出してみる。

 釈尊の誕生日は四月八日であり、この日はきわめて重要な節目だったようだ。前年の七月七日に年一回の男女の交会があり、そのときに受胎すれば翌年四月八日に出産するしくみになっていた。七夕は釈尊の誕生日四月八日につながっていたのですね。

 ゾロアスター教の死者の一周忌ではメロンや西瓜がふたつに切られる。死者の魂が再生して生まれるようにという呪術だそうだ。かぼちゃのようなウリ科の果実も冬至にイランで食べられるそうだ。日本でも冬至の夜にかぼちゃを食べたり、ゆず湯に入ることの共通性がみられる。冬至の御子誕生の呪術であった。「シンデレラ」にはかぼちゃの馬車が出てくるし、「灰かぶり」の灰は植物の成長を早めるといわれる。原始宗教の意味が「シンデレラ」にこめられているのかもしれませんね。

 中国には三会日というものがあって、一月七日と七月七日と十月五日であった。これらの三つの日に男女は交会するとされた。七月に受胎すると四月に生まれる。三月の春分の日には十二月の冬至か、一月六日に誕生する。一月の交会の結果は十月に生まれることになった。十月の交会は七月七日だ。

 羽衣伝説で、男があの世の妻のもとからこの世によみがえるのは冬至の日とされている。かぼちゃ粥や赤豆粥を食べる話から示唆されるという。この日は最終的な穀霊の死の日であり、太陽の増大と再生の準備に入る日であった。かぼちゃを食べたり、赤豆粥のような赤い汁を食べるのは、赤い血や中空の子宮を表象する再生儀礼であったと考えられるという。

 ミトラス教では、ミトラスは「岩から生まれた神」として、岩と洞穴のシンボルをともなっている。ミトラスの誕生は冬至の日とされ、キリスト教のクリスマスにうけつがれた。おおくの論考が証明する事実である。

 冬至から春分にいたるさまざまな「冬の祭り」に節目に、聖徳太子一族の忌日が配されている。

 死の三日あとに再生する思想が西アジアにあった。ゾロアスター教では、死者の魂は三日間、枕辺にあり、そのあとで他界で再生する。キリストの復活も死後三日である。

 毎年あたらしい年になると縁起のよい方角も変わり、人々はその方角にある社寺にお参りする風習がある。西北の乾(いぬい)と東南の巽(たつみ)の軸が古来アジアでは神聖視された。西北の方角には異界・あの世が開かれていて、祖霊が往来すると考えられていた。大阪では「巽」という地名があるが、どの方角からなのだろう。

 廟や寺社と人間の住む俗界の境目に賽銭というものが存在し、お金を奉納する。聖と俗のあいだの交換儀礼という人間の古い習俗で、神様と交換するだけではなく、寺社に市を立てて人間どうしも交換した。経済というのは神との交換がまずはじめにあったのではないだろうか。

 ヨーロッパでも、多くの地域でもそうだが、聖地の岩の裂け目や巨樹の樹皮の裂け目に銭がさしこまれる。聖地というのはこの世とあの世の境目であり、人々は銭と交換に福を求めるのである。お金には災厄やケガレをなすりつけるという話を聞いたことがあるが。自然の裂け目=大地の女陰、子宮に神と通じる場所があるのである。

 イスラム教徒は余裕のある者はたえず貧者に施している。貧者に施すというよりか、神に財を収めるといったほうがよい。うけとる側は、人間から恵まれたと考えないで、天からさずかったと考える。神を介在させる施しは個人的恩や好悪をこえた関係をもたらすようですね。

 以上、オリエントから日本の季節行事や習俗の意味が立ち上がってくるという解明がこの本でおこなわれている。

 現代のわたしたちは神や季節行事の意味をもう見失ってしまっている。なぜそんなことをおこなうのかも意味も知らずに季節行事や宗教儀礼をおこなっていたりする。謎として意味を解明することはけっこうおもしろいことではないだろうか。神はもうまったく信じられないとしても、季節にこめた祈りの意味は、わたしたちに納得の気持ちをいくぶんなりとももたらすのではないか。


▼井本英一の本
神話と民俗のかたち穢れと聖性聖なる伝承をめぐって夢の神話学十二支動物の話 子丑寅卯辰巳篇

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