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01 01
2013

集団の序列争いと権力闘争

はじめて「スクール・カースト」の名を冠した研究書ですね―『教室内(スクール)カースト』 鈴木 翔

4334037194教室内(スクール)カースト (光文社新書)
鈴木 翔
光文社 2012-12-14

by G-Tools


 ネットではふつうに語られる「スクール・カースト」という言葉だけど、研究書としてはまだ出されていなかったので、はじめてその名を冠した本を読んでみた。

 「ブラック企業」でもそうだったけど、従来のマスコミだけでは掬えない言葉や事象がネットから生まれたことはネットの力を感じさせるね。

 この本はアンケートやインタビューの集計結果の発表のようなかたちになっている。深い考察や問題意識をえぐられるような指摘が乏しく感じられたのはそのせいだろうか。

 まあ、でも言葉にされるだけでも、うわさをされたり、ほのかに認識されていたけど、明確でないスクール・カーストというものがだいぶ姿を現したのではないかと思う。

 スクール・カーストの解明はいじめ解決の直接的アプローチではないが、その土壌から生まれてくるものであるから、学校内階層を解明することはいじめの解決に向けてのステップになるとはなるほど。

 わたしはこのようなスクール・カーストは人間の本性のようなものだから変えられないものだと思っていたが、なんとなく下に思われていたり、引け目や気後れを感じたり、のびのび自由にふるまえない空間を変えるべきだ、根絶するべきだと思っているのは意外に思えた。そのような人間関係などありうるのだろうかと思ってしまうのだが。

 でもこういう学校空間が自己主張や自己表現がヘタで、引っ込み思案の人間を多くつくりだしているとするのなら、教育問題としてこの教室内のスクール・カーストを早く改善すべきではないのか。スクール・カーストは学習や発表の阻害や障害をつくりだす原因そのものではないのか。

 存在を認識されながらもなかなか言語化されなかったり、研究や改善の対象にならなかったスクール・カーストというものは、おそらくだれもがその中の一プレイヤーや駒にすぎなかったからだろう。その人間関係の荒波の中で、権力のオリの中を泳ぎながら、人はこの日々を渡ってゆかなければならない。この知識の有無はその勝敗すら決したかもしれない。秘密や個人機密、秘法のような性質ももっていたのかもしれない。

 スクール・カーストの上位というのは固定して教室で騒ぐ権利を与えられているようなもので、これは「場の運営権」や「場の発言権」に近いものではないかと思った。場所の雰囲気やムードを決定する裁量権を上位グループはもつのである。いわゆる「空気」というやつですね。下位のグループにはおとなしくて、そういう権利が与えられない。

「「下」には、騒ぐとか、楽しくする権利が与えられていないので、「下」のくせに廊下で笑ったりはしてはいけないんです。「ちっ、邪魔だよ。あいつわかってねぇな、不快だ」ってなります。「上」のやつが廊下で騒いでいる分には、「あ、楽しそうに騒いでいらっしゃいますね」みたいな…。「下」にはそういった異議を言う権利は与えられていないので。それ言っちゃたら治安がなくなってしまうし、クラスのポジションが大変なことになっちゃうんですよ」



 スクール・カーストの下位者には騒ぐとか楽しむ、発言するという権利さえ奪われのである。下位のグループがいかに窮屈で、自由を奪われたポジションに甘んじなければらないか。

 だけどカースト上位者も場の雰囲気やムードを決定し、生み出す義務や責務も与えられていて、みんな黙っているときに冗談をいったり、よどんだ空気を一掃したり、教師に冗談をいう手合いも求められる。それで疲れた上位者は学校をやめた生徒もいたということだ。上位者もなにがしかに拘束されるのである。

 スクール・カーストは個人がきょうから急にキャラを変えたからといって順位が変わるわけではなくて、かなり固定的なようなものらしい。

 クラスの上位たちが仲良く結束しすぎると不明瞭だった階層も固定化されて、統一されて支配される勢力に強くさらされることになるから、クラスの結束はある程度ゆるいほうがよかったという生徒もいる。一枚岩の空気はコワいでしょうね。

 生徒たちはこのスクールカーストを「権力」だと捉えていたが、教師たちはどう捉えていたかというと、それを生徒の「能力」の差だと捉えていたらしい。生徒の中には教師は上位グループの権力にすり寄って、かれらから権力を分けてもらうのだと見えていたようだ。まあ、わたしたちも生徒の権力とのつながりに失敗して、なめられたり、相手にされなかった教師をたくさん見てきたのではないだろうか。

 教師のカースト下位者にたいするインタビューの視線がひどいものがのっていて、

「(弱い系のメリット)自己決定しなくて済む。決断力がない人間は、ついていけば済むから楽かな。言われるがままにやってればいいから。だから何も考えなくていい、のほほんとしていればいい」



「(下位のグループにいる生徒は)100%将来使えない。…今年就職活動とかやってるんだけど、結局落ちてきているのはそういう弱いほうだよ。部活もやっていないオタクで、気も弱い感じのほうだよ。…基本的にその強い系のやつらは、うまいから、生き方が。だから、いざというときはゴマすりとかできるから、だからたぶん生きていけるだろうって思う」



 教師にしてはずいぶん他人事の発言すぎる気がするが、この教師がいっていることは「コミュニケーション力」や「世渡り術」といったものはカースト上位者は長けていて、下位者にはそれがない、といっている。人とうまくやる能力、コミュニケーションする能力が、カーストの上位に位置するようなことをにおわせている。そうかもしれませんね。ただこの教師、進路や将来の責任をまったく投げているとしか思えないのですけど。


 人間はなぜカーストのような序列をつくるのかといったテーマは、わたしもいぜん考えたことがある。アメリカの本でもスクール・カーストのような階層も報告されている。イヌとかチンパンジーの動物行動学に示唆されることがいちばん多かったかなと思う。デズモンド・モリスとかね。人間の序列ってノンバーバル・コミュニケーション(非言語的コミュニケーション)とかボディ・ランゲージのほうにより多く表されてきたのじゃないかなと思う。趣味の階層といったものは、ピエール・ブルデューなんかがやっているね。

 動物の序列というのは、限られた資源を順当に配当するための順番性のようなものかもしれない。序列がはっきりしないと争いばかりになる。序列を決め、守ることで、限られた資源の配分を順番に温和に配当することができる。教室の序列というのは、教室の運営権や発言権、決定権という限られたリソースをめぐっての序列じゃないのかなと思う。

 スクール・カーストは根絶や改善できるものという視点に立つことができると、教育や成長の阻害となっていた原因を多くとりのぞけるかもしれないね。いじめ解決のアプローチにも違った面から切り込めるね。この秘密や機密にされていたような人間の一側面が新しく解明されれば、わたしたちはより生きやすい社会に住まうことができるようになっているかもね。


▼スクール・カーストについての参考本
底辺女子高生 (幻冬舎文庫)桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)花とみつばち(1) (ヤンマガKC (864))女子高生 1 新装版 (アクションコミックス)12人の悩める中学生 (角川文庫)

女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること女の子どうしって、ややこしい!女子の国はいつも内戦 (14歳の世渡り術)マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)チンパンジーの政治学―猿の権力と性 (産経新聞社の本)


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