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2012

書評 性・恋愛・結婚

150年前、人前での裸が平気だった日本人―『裸はいつから恥ずかしくなったか』 中野 明

4106036614裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 (新潮選書)
中野 明
新潮社 2010-05

by G-Tools


 唖然としたというか、驚嘆というか、思わず唸った一冊だった。

 日本人はどうやらわずか150年前、人前で裸をさらすことに羞恥も禁止もなかったようなのだ。こんにちのわたしたちは「そんなバカなこと」と思うだろうし、なかなか信じられないことだろう。

 だからこの本では当時、西洋人が混浴や庭先で行水をする日本人に出会って驚いたり、非難する言葉の記録がつぎつぎとたどられてゆくことからはじまる。わたしたちはもう西洋人と同じ考えと目線しかもてないから、かれらのカルチャー・ショックの言葉のほうがよほどぴったりくる。わずか150年前の感覚すらわたしたち日本人はもうもってはないのである。

 この本は1854年、安政元年に描かれたつぎの下田の公衆浴場のナゾからはじまる。

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 どうもおかしいではないか。男女が混浴で浴場に入っていて、ちっとも裸を隠すわけでも、恥ずかしがるわけでもなく、堂々としている。こんにちではありえないことであるし、わたしたちの知識でもむかしの日本でこんな混浴がごくふつうにおこなわれていたのかさえすでに知らないことになっている。

 そういう謎解きのスリリングな展開がこの本の前半でおこなわれる。わたしたちも西洋人が口々に証言する日本人の露出されたハダカ感覚に驚き、疑いながら、数々の西洋人の証言をたどってゆく。

 全国すべてに混浴がいきわたっていたかというとそうではなくて、まだらのようにあったようである。また銭湯からあがった人は近ければべつに裸で帰ったということである。行水や沐浴のようなことも、外から見える庭で平気でおこなわれていたし、通りや往来に近いところでもべつにふつうに行われていたそうなのである。若い女性でも関係なかった。

 どうしてそういう公衆のまえでも裸でいることに平気だったのかというと、著者は裸は「顔の延長」のようなものではなかったのかと推測する。現代でも顔を恥ずかしがる人なんていない。裸もそういう「顔の感覚」で捉えられていたのではないのかという。

 裸体は制度により「無化」されていたのではないのか。裸は「コモディティ(日常品)」のようなものであり、珍しくもなかったし、隠すこともなかったものではなかったのではないか。社会制度として裸の価値はこんにちのような性的な意味を付与されたり、禁止されるものではなかったのである。

 幕末まではこういう感覚で日本人は人前でも平気に裸をさらしていたのだが、西洋人の非難の言葉や西洋化に流されて、どんどん裸を見せることが罪や恥だといった禁止令や弾圧をおこなわれるようになった。

 そのことによって裸は恥ずかしいもの、「性的」なものであると日本人は気づいてゆく。裸体がコモディティのときには人前で裸体がさらされても性的に感じたり、セクシーさを感じるものではなかった。裸が禁止され、隠されることによって、その性的な価値、セクシーさは増すことになっていったのである。

 思わずうなったというのは、性的なものや羞恥心というのは社会制度によって生まれるということがこの日本人の裸体感覚であぶり出されていたからだ。わたしたちが性的に感じたり、欲情を感じるのは、社会的に制度づけられたものに水路づけられるのではないかということだ。わたしたちは隠したり、見せたりする社会制度の中で欲情している。

 社会の禁止や文化コード(規範)に対して欲情しているとさえいえるのではないのか。

 こんにちでは性的なことは私的なことや日常で感じるというよりか、マスコミで女優やアイドルが脱いだり、ヌードになったという衝撃で、より性的なものを感じるようになっている。つまり公共でどうさらされるかということが性的なこと、セクシーなことになっている。性的な基準というのは社会や公共の基準のことではないのか。基準がセクシーなのである。公共的な基準がわたしたちの性のありようや関心を決める。

 羞恥心や隠すことによるセクシーさの拡大というナゾは、いぜんも問うてみたことがある。隠すことは「自他の境界」や「自己」も生み出すのではないかという探索もしてみた。

 バタイユや栗本慎一郎などは禁止することが快楽を増大させるという理論から、人間の勤勉や労働はポトラッチ的な破壊の快楽のためにおこなわれるといった。ためこんで、ためこんで、ガマンする果ての破壊の快楽は恐ろしいということですね。

 この本はそのへんの周辺の探究にまた火をつけそうな本だ。隠すこと、羞恥心、セクシーさ、そういったものの絡まりの謎解きの快楽をまた与えそうですね。

 隠すことの性的快楽の増大はこんにちのわたしたちがよく知っている。だけど隠さないことによる、裸をオープンにすることによる性の無化という世界を、わたしたちは知りえなくなっている。みんなが裸で平気になる社会は返ってぎゃくに、性的な事柄や魅力が縮小する世界なのだろうか。

 わたしたちは裸を隠して禁止する清らかな社会に生きていると思っているけど、ぎゃくに性的な欲求不満や性的な意識の増大、セクシーに感じることの快楽を知らずに拡大しているのかもしれませんね。「秘すれば花となり」、「チラリズム」といったものですね。

 禁欲の世界は隠して隠して、ためこんでためこんで、破裂する快楽を見つけただけの方法なのかもしれませんね。ガマンした後のビールはうまいというやつと同じですね。

 ナゾと探究の世界に火をつけそうな一冊ですね。


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