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ということなら、わたしのおすすめはトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』である。自己啓発の元祖といっていいと思う。信者でなくても、神を信じなくても、方法として心が安らかになる方法、平安になる方法がいくつも説かれている。
![]() | キリストにならいて (岩波文庫) トマス・ア・ケンピス 大沢 章 岩波書店 1960-05-25 by G-Tools |
わたしなど神など信じることはもうできないと思うのだけど、この本の方法はなるほど心が安らかになる方法が知悉されているなと思う。
『福音書』はあまりセラピーの要素がないと思うが、『キリストにならいて』はセラピーの要素満載。現代の自己啓発のノーマン・V・ピールやジョセフ・マーフィーより幅広いセラピー書になっているのではないかと思う。
いくつかの心が安らかになる方法を引用したいと思う。
「もしお前が心の平安を、自分の感情やその人とつきあってゆくことのために、誰かに依らせ、その人の手に委ねるなら、お前は心の落着きを失い、煩いに巻き込まれよう。だが、もし常に生命を保って滅びることのない真理に頼れば、友だちが遠ざかろうと死のうと、そのために悲嘆に陥らないですもう」
まずこの言葉を第一にあげたいですね。人は他人とか世間の評判を気に病みすぎていて、このことに悩まされることがいつもの日常だと思う。この煩悶からの解放を説いた点がすばらしいと思う。
「世の称賛も、非難をも、気にかけない人は、大いなる心の平安をもつものである。
世の賞賛を博したからといって、それでいっそう聖人になれるわけではなく、悪口されたからといって、それでいっそうつまらぬものになるわけでもない。あるがままのあなたがあなたであって、人がどういおうと、神の見たもうところ以上に出ることはできない」
人は他人の悪口や評判にひどく心をゆり動かされるものである。ちょっとした誹謗や中傷、陰口などにこの世の崩落のような思いがするものである。もしそのことを気にかけずにいたり、神という視点で見ると自分はまったく変わらないということを知ることができるのなら、ずいぶん安らぐことだろう。
「お前の心の安らぎを、人びとの口(言説)においてはならない。何となれば、人々がお前のすることを、よく取ろうと悪くとろうと、それだからといって、お前が別の人間になるわけではないのだ」
人の言葉や評判を気にしないようになるとこの世の多くのわずらいや苦労はとりさられるでしょうね。
「他人にはそれぞれ好きなことを要求させ、勝手なことに威張らせておくがいい、また勝手に千度の千倍も、誉めあげられていさせるがいい、だがお前は、あれやこれや得意がって威張ることはせず、自分自身を蔑むことを喜びとし、私一人だけの気に入ること、私だけの栄光を喜びとするよう」
人の関係の中だけに全人生の過重をかけないようになると、ずいぶんと安らかな境地になれるのでしょうね。
「またお前をひどく脅やかしつけるのは、根もない恐怖心である。将来起ころうということを気にするのが、何の役に立とうか、悲しみの上に悲しみを重ねようというため以外に。一日の苦労は一日で足りるものだ。恐らくけして起こるまい、という未来のことのために、われわれが心を騒がせたり、喜んだりするのは、いたずらに無用なことである」
カーネギーなんかは鉄のシャッターで未来と過去を断ち切れといっていますね。あしたやきのうのことを考えるから、つらいことや悲しみが山のように積もるのである。もしそのようなものをいっさい断ち切ったとしたら。
「なぜあなたは思い乱れているのか、望み願うとおりに事が運ばなかったからといって。自分の思いどおりに万事がなるというのは、誰のことなのだ。…この世では、何かの難儀や苦悩をもたない人というのは、一人もいない、よし帝王だろうと、法王だろうと」
むしろこの世はかなわないこと、思い通りにすすまないことのほうが当たり前のことなのだと思っていたほうが心は障害や壁に当らないで安らかなんでしょうね。
「この世はあなたの安息の場所でないのに、あなたはそこで何を探ね回っているのか。天上にあなたの住居はあるはずだ。それゆえ、地上のあらゆるものは過ぎゆくものと眺めるべきである。すべてのものは過ぎてゆく。あなた自身もまた、それらと同じように。執着をもたないよう気をつけなさい」
この世の安楽や平安もまた永遠のものではなく、なくなり、失われ、損なわれるものである。この世に安らぎを求めるときっと悲嘆や喪失にさいなまれることだろう。
「それともお前は、この世の人々がなんの苦悩も、いや、少ししか苦悩を受けないものと思っているのか。どんなに気楽な暮らしをしている人々をしらべて見たとて、そんなことはないのが知れよう。
見なさい、この世で富み栄えるものも、たちまち煙のように消え失せよう。そして過去の歓喜の思い出は何一つ残らないだろう」
だれもがこの世で永遠の安らぎや平安をうることはできない。どこかに安楽の地を設定することはこの世の苦労を削減してくれるだろう。
「なぜお前は、用もない悲しみのために身をやつすのか。なぜよけいな思い煩いに心を悩ますのだ。…もしもお前が自分の都合を考え、自分だけの気にいるものをもっと手に入れようとして、これやあれやを求めたり、ここやかしこにいたいと望むとしたらば、お前は決して平静な心を保つことも、また心配から自由であることもできないだろう。なぜというと、あらゆる物事には何かの欠陥が見出されようし、どんな場所にも、お前の意に逆らう人がいるものだから」
世の中には不満や欠陥がかならずどこかにつきまとうもの。完璧無比な世界は存在しない。
「すべてを捨て去れ、そしたらお前はすべてを見出せよう、欲情を捨てろ、そしたらお前は平安を見つけ出せよう」
けっきょく期待や前提というものが、わたしたちに失望や幻滅を味わせるのでしょうね。
どうでしたでしょうか、セラピーの要素がたくさんありましたね。悲しみや苦悩の原因というのは、大いなる期待や前提があって、その現実の突出面が人を悲しみに暮れさせるものかもしれません。その考え方の修正を迫るのが、この『キリストにならいて』かもしれません。
もっと深く知りたくなった人はこの本を読みましょう。ひとつの考え方として参考になるのではないでしょうか。けっしてキリスト教の信者にならなくても、じゅうぶんに利用できる知恵なのではないかと思います。
▼もう少しくわしく知りたい人はいぜんの文章でも。
認知療法として読むトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』