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12 23
2012

レイライン・死と再生

女はすべて神の嫁だった―『性の民俗誌』 池田 弥三郎

406159611X性の民俗誌 (講談社学術文庫)
池田 弥三郎
講談社 2003-08-08

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 まえに読んだのをすっかり忘れてまた古本で買ってしまったが、問い方がこんかいは違ったので違う文脈であたらしい読み方ができたということでムダな買い方ではなかった。

 こんかいの問いというのは性と神のかかわりなので、いぜん読んだむかしの性の放縦を知るという好奇心だけではなかったので、よりこの本の深みを感じられた。

 この本は昭和三十二年に雑誌『キング』に連載された「性風土記」がもとになっているが、全編書き直して翌年の1958年に『はだか風土記』と出版されたものだ。

 わたしの問いとしては日本のむかしの性風俗として、一夜妻や初夜権、祭りの性的解放のような性的アナーキーはどうしておこなわれたのか、その神との関係を知ることである。性の解放が性的淫乱だけでおこなわれたのではなかった神との関係を知りたいと思った。

 どうも「女はすべて神の嫁だ」という観念が通底に流れているようですね。

 神は穀物や豊穣をもたらす「来訪神」として天皇や男の姿を借りてやってくる。生命の糧をもたらしくれる神には訪問客としての最高のおもてなし・歓待をおこなわなければならないということで、性の捧げものがされたようですね。

 処女の初夜権や妻娘を客人に捧げる習慣、祭りの日に夫妻、若者が見知らぬもの同士で交わるという慣習は、現代の人間による性的所有という規範からは信じられない話だが、神への歓待という説明で理由づけできるのではないだろうか。かならずしも堕落や淫乱、本能だけにつき動かされていたわけではない。

 ところどころからこの本の大事なところをピックアップしよう。

 山間の夜を徹した祭りでは「木の根祭り」という別称があった。祭りの日にはあちこちの暗がりでは、木の根を枕におまつりがおこなわれていたことから、ささやかれるようになったという。

 祭りを構成する幾段階のひとつには、神聖な結婚があった。神の資格で出現した男と、これを歓待する女、このあいだに祭りの一段階としての結婚がおこなわれた。

 結婚式の夜、新夫婦はしとねを共にしないという話はあちこちで聞く話で、耳にしないほうが少ないほうだろうと昭和三十年代ではいわれている。花婿は友人が数名で遊郭に拉し去る。花嫁がどこにいっているかというと、えびす様に会っているという。お初穂をえびす様にあげるのである。

 平安時代、女のもとに訪れた男が、一番どりが鳴くとともに帰らなければならないのは、女のもとに通う男は、神の資格において通うからである。神が巫女のもとを訪れて、神聖な結婚をおこなった形である。だから光源氏は夕顔の女を訪れるときは覆面したままで顔を見せない。

 近代まで大阪などでも嫁入りの行列は「ぼうた、ぼうた」と声をたてて進んだそうだ。ぼうたというのは奪うたということで、この花嫁は奪ってきたのだと神に弁解しながら男に嫁いでゆくのである。

 村の娘は、村の神の所有物だから、人間との結婚は、娘自身の意志ではないとよそおう必要があった。そうした「嫁かたぎ」の風習が残っているところがあった。沖縄の娘は結婚するとその夜から逃げかくれてしまう。男は友人の力を借りて見つけなければならない。

 神の資格で来臨するものにつねに会った女性が、遊女の起源だといわれている。だから、近世以降の大きな遊所が神社の門前町に発達した。伊勢の古市、摂津の神埼、山城の伏見、橋本、みな大社の門前町である。

 伊勢の山田の「つと入り」は陰暦の七月十六日、盆の祖霊を送る日だが、家の家具や妻娘、娘嫁まで見たいものがあれば、どこの家でも勝手に出入りできる日であった。神を迎え、神を歓待する役の女だけが家に残って、人間の家を神に明け渡した信仰行事の名残りだといわれている。

 盆踊りそのものは性の解放を要素としていないと著者の池田弥三郎はいう。歌垣のばあいは行事を完成するためには性の解放を必要としたという。

 田の芸能にはエロティックなものがはなはだ多い。登場人物の男と女が、見物の眼前で、はでにいだき合い、かさなり合うという極度にエロティックな行動が堂々とおこなわれる。見物人に見せているのではなくて、本当の見物人は田の精霊である。これを見せつけて、稲の繁栄、生育と結実を促進せざるをえなくしてしまうということである。

 これらを見てわかるように性は神を歓待するものであった。豊穣や再生を願うものだった。人間をとおして神は来臨すると考えられていた。淫乱で放縦な性のアナーキーは、神に捧げるものとしての性という位置づけであったから、現代人にはその性の論理が見えなくなっているのである。

 神は地上の生命の糧となる食料を「無料」でギフトしてくれる。ときにはみずからの命を捧げたり、血を流して、人間の生に貢献してくれる。お返しとして人間は最大限の歓待とおもてなしをおこなわなければならないと思ったのだろう。

 また性交は来年の豊作や繁栄をもたらす契機になるものである。神を刺激して来年の収穫を大きなものにしなければならない。むかしの人の性的放縦にはそういった論理的理由がはたらいていたのではないだろうか。

 こういった世界観は西洋文明の流入と共にすっかり断絶してしまおうとしている。むかしの性的放縦を土俗や遅れた迷信といった後進性の批判だけで、理解しようとしない態度はとりたくないものである。


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