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12 08
2012

レイライン・死と再生

性はなぜ神に捧げるものだったのか?

 大和岩雄の『遊女と天皇』(白水社)を読んでいるのだが、むかしの日本の性風俗におどろかされる。同様な本に夜這いをとりあげた赤松啓介の『夜這いの民俗学・性愛論』があるわけだが、前者の本のほうがよりその目的・理由に迫っているといえるだろう。

4560081948遊女と天皇(新装版)
大和 岩雄
白水社 2012-01-18

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4480088644夜這いの民俗学・夜這いの性愛論
赤松 啓介
筑摩書房 2004-06-10

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 表面上は乱交や貞操観念のまったくない性的放縦がくりひろげられるのだが、ほんらいの目的は死と再生の思想を再演することであったり、豊穣や繁栄を祈願したものだと思われる。

 人間の性をさかんにすることによって動植物の繁栄や豊穣ももたらされると考えたのが古代人だ。現代人が商売繁盛を願うときは神社に賽銭を投げ込むのだが、むかしの人はみずからが性的行為をおこなうことによって自然界の繁栄を願ったり、または衰弱し衰えた自然界の活力と再生をうながすために人は性行為をおこなったと思われる。自分たちの性行為は自然界の活性化をもたらすものであったのである。

 このような思想のもとに乱交や放縦な性行為はおこなわれたのであり、貞操観念の崩壊や道徳観の堕落があったわけではないのである。もし性の活性化がおこなわれないと、冬に衰弱した自然界は二度と春や秋に豊穣や収穫がもたらされないかもしれない、そういう思想の元に性の解放はおこなわれたのではないかと思われる。

 『遊女と天皇』からいくつかの例をピックアップしよう。

 


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▲姉妹が寝ているところに夜這い http://homepage2.nifty.com/kobatetu/ukiyoe/ukiyoe6.htm

 祭りのあとには性的解放がおこなわれ、女性は身体が丈夫になるからと言って、だれかれとなく肌をゆるした。未婚の女性も良縁をえられると肌をさらした。

 社前の河原の石枕で、幾十百組の男女がまじわったところもあった。既婚の女性だけにかぎられていたときもあったし、既婚・未婚を問わず境内に群集する女性はいかなる男性とも交わることをゆるされていた。

 祭りの日に人は神としての「よりしろ」になり、または「ハレの日」にはだれもかれもが「神」となった。

 遊郭のおいらんは大神(だいじん)のより来るのを待っていたのであり、「だいじん」は客人(まろうど)神である。

 地方では旅客に妻や娘が貸し出されることもあった。良家の娘もみずからすすんで枕席に待る。新潟県は遊女の大量生産地であったが、遊女に出すことは行儀見習いくらいにしか考えておらず、上流の家庭でも嫁入り前の修行くらいに思われていた。

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▲亭主が寝ている横で夜這いの春画 http://homepage2.nifty.com/kobatetu/ukiyoe/ukiyoe6.htm


 ムラには初夜権というものがあり、それは新郎が得るのではなくて媒酌人やその友人が得ることもあった。未婚の女性はムラの若者が自由にする権利もあったとされる。

 村の女は、一度、正式に神の嫁になってこなければ、村人の妻になれないと考えられていた。人ではなくて、神に捧げられたのである。

 娘は十四・五になると女にしてあげるという習慣があったようである。男にもあったわけだが、娘も親がその役割をする人に酒をわたしてお願いしたりした。

 結婚が決まると親は一升瓶をもって若者頭に生娘から女にしてやってと頼むそうである。若者頭は「エビス神」とも「道祖神」ともよばれた。女性は神の妻となりえるもの、霊力のあるものとされた。

 処女性は神に捧げるものとされた。「生娘はこわい」といわれた。神の妻となるものを、人間が犯すのはおそろしいことであったのである。結婚前に処女であってはならないという考えもあった。

 バビロニアのイシュタル神殿では、女性はこの神殿で一生に一度は見知らぬ男を交わらなければならない風習があった。ギリシャでもアフロディテ祭でおなじようなことがおこなわれた。「神殿淫売」とか「聖所淫売」といわれた。

 フェニキア神殿では節を売ることが女神をなだめてその恩恵に浴することができると信じた。アリ人の女はまさに結婚する女が七日間、門のかたわらで姦淫することが律法で定められていた。



 一夫一婦制や貞操観念のある現代からは信じられないトンデモ性風俗がむかしにはくりひろげられていたわけだが、冒頭にのべたように人間の性的放縦は自然界の活性化をもたらすものであり、さもなければ冬による枯渇や死がおとずれたかもしれない、むかしの人はそう考えたのではなかったのか。

 わたしがわからないのは、性交渉をおこなう相手にどうして「神」が宿るのかという思想である。性交渉をおこなう相手にどうして「神」がよりしろうのか。見知らぬ男女がどうして神なのか。

 古代人は山のむこうに「あの世」を描いた。太陽がのぼり、沈む山の方角にあるものは、死者や祖先が帰る「あの世」であり、あの世には神が坐ますものとされた。あの世の「裂け目」が、太陽の沈む山に見出されたのであり、それは洞窟や割れ目のような女性の陰部をかたどった「大地の陰部」にあの世とのつながりがあるとされた。

 生命が生まれるところは女性の子宮であり、大地も収穫や豊穣をもたらす「大地の子宮」をもっているはずだ。その大地の子宮というものが、生まれ来るものと死していったものが出入する「あの世」の入り口ではなかったのではないか。そこは神の坐ますところではないのか。

 もしかして女性の子宮にも「神の入り口」が考えられており、それゆえに「神のやってくるところ」と考えられたのだろうか。生命が生まれ来るところは、生命のない世界との連絡口でもある。女性はそのように神やあの世と近い存在と考えられたのだろうか。

 まだ性急にこの答えを知るための納得する材料も、腑に落ちる資料を読んだわけではないので、答えを導く段階ではないだろう。

 性行為が神と結びつく論理とからくりがいまいち腑に落ちない。性はどうして神に捧げられるものであったのか。神はどうして見知らぬ性交渉の相手に宿ったのか、夫や妻ではなくて。まだ納得できる論理を見つけたわけではない。


▼引用の多かった中山太郎を読みたいのだが、手に入りにくそうだな。
タブーに挑む民俗学―中山太郎土俗学エッセイ集成日本巫女史穀神としての牛に関する民俗盆踊り 乱交の民俗学乱交の文化史

性愛の民俗学 歴史民俗学資料叢書 第3期 3 (3)未開人の性生活女神―聖と性の人類学一つ目小僧と瓢箪―性と犠牲のフォークロア竈神と厠神 異界と此の世の境 (講談社学術文庫)

売春の社会史〈上〉―古代オリエントから現代まで (ちくま学芸文庫)遊女の社会史遊女の文化史―ハレの女たち (中公新書)「愛」と「性」の文化史 (角川選書)中世の非人と遊女 (講談社学術文庫)

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Comment

なるほどですね(*^_^*)

素晴らしいですね

読み入ってしまいました

 初めまして。

 私も、本の紹介のブログを書いているのですが、まったく違ったジャンルなので、とても参考になりました。

 思わず読み入ってしまいました。

 「女性の初めて」をもらうのは根性がいる話だったのでしょうかね。

 昔は、「血」は穢れだと思われていたのでしたから。
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