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08 04
2012

書評 哲学・現代思想

「世界は消え続けてきた!」―『人生に生きる価値はない』 中島 義道

4101467307人生に生きる価値はない (新潮文庫)
中島 義道
新潮社 2011-09-28

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 コラム・エッセイをあつめたもので、中島義道の人となりが知れてよかった。フーコーやレヴィナスのような流行の思想家は読めないこと、ニーチェは還暦をすぎたことからわかりだしてきたことなど意外。「みんな一緒主義」とか「仲良し主義」への批判はあいかわらず同感する。

 中島義道は人は顔色をうかがってばかりいる人や空気に縛られて窮屈だと思っている人、みんなといつも一緒だとか友だち主義に気疲れを感じている人にはおすすめの哲学者である。

 このコラム集のなかでいちばん感銘したのは「世界は消え続けてきた!」という時間論にかんする章である。近来ないほどの思考の転換があったということだ。

「「未来はない」ということを明晰かつ判明に腹の底から確信した。

…断じて「まだない」のではない。それについて語ることさえできない絶対無なのだ。

…「未来に起こると想定したあるもの」は、未来に起こることではなく、現在そう考えていることだけのことである」



 「未来はただの想像にすぎない」といったことや、「未来は存在しない」と言葉でいっても、それを腹の底から実感として感じることはまたべつである。想像や言葉の「実在感」をばりばりに感じてきた人こそ、その消滅の衝撃につき落とされる。

「世界は絶えず消えていく。

…広大なシベリアは刻々と消えていくのだ。いや、地球も、太陽系も、銀河系宇宙も、まるごと崩壊していくのだ。

…私が数時間前にそこから飛び立った成田空港はいまはまるごと消えてしまって「ない」。そして、やがて私が到着するであろうシュベヒャート空港もまったく「ない」。私はいま無と無のあいだを飛んでいるのだ」



 人は未来も過去もある、確実にあると思い込んでいるものだが、じっくりと観察してみると未来と過去の事物はまったく存在しないか、消滅してしまったものである。わたしたちは存在しない事物をいかに「創造」しているかということである。

「この世界は確固としたものだという錯覚に陥るのは、言葉のせいである。

…言葉が刻々と変化し続けるものを、時間が経過しても変化しない「一つの物」とみなす錯覚に導くのである」



 われわれは言葉や創造による事物の「創造」をいかにおこなっているかということだ。そしてそれは「存在しない」のである。

「客観的時間とは、たぶん壮大な錯覚なのだ。じつは存在しないのに、あたかも存在するかのようなものにすぎないのだ。

客観的世界信仰から脱すべきだと思う。そこに「私の存在」が書き込まれていない、いや原理的に書き込めない世界が、なんで実在世界でありえよう?」



 わたしの「外側」に客観的世界があると思い込んでいるわけだが、はたしてわたしという認識主体をなくして世界は存在しえるだろうか。わたしがなくなれば、この世界もなくなるのではないのか。

                    *

 中島義道は徹底的に考えてきた人である。言葉と論理で確証するために考えること、悩むことを手放さなかった人である。

 じつは上記のようなことははるか二千年前から仏教がいってきたことであり、仏教の教えを受け入れていたら、中島は苦しんだり、悩むこともなく、それを手放す知恵を手に入れられるのにどうして言葉と悩みの方法を選んでしまうのだろうと疑問に思ってきた。中島はたぶん自分が言葉で理解するまで、自分の実感として理解するまで、安易な解決方法を拒否してきたのだろう。西欧哲学は仏教をうけいれてはいない。

 中島が時間や客観世界の「無」を実感する道筋にたどりついたのは、たぶん死にたいする恐れが強烈に強かったからだろう。時間の「無」、客観的世界の「無」を悟ることは、死の恐怖を立ち上がらせる思考の根源を断つことである。

 なぜなら人は死を客観的には体験できず、死を体験するときはすでに意識がないからであり、自分の死の恐怖は未来の想像にすぎないからである。これらが言葉や想像による「無」であるなら、なんら恐れることはない。恐れていた死はただの「想像」であったのである。中島は死の恐怖の克服のために、ずっと哲学してきたことといえるだろう。

 タイトルの『人生に生きる価値はない』という言葉も、死の恐怖を和らげるための言葉である。死が恐れられるのは、生きることに価値をおいているからである。生きていることの消滅はその価値ある生の消滅である。だから人生に価値がないと思うことによって、その人生の消滅もなんら大きな価値も意味ももたないことになる。

 中島は死に対する恐れを克服するために哲学をしてきて、西欧哲学を経由した上で、仏教や東洋思想が語ってきた思想に接近したのである。東洋思想に安易に接近しなかったのは、遅れた東洋や俗習である宗教という偏見でもあったのだろうか。

 だから中島は意地でも言葉と論理によって理解しようとした。苦しみや悩みが大きいとしても、その問いを手放さなかった。なんで中島は手軽な解決法が東洋思想に提供されているのに、その方法を使わないのかと思ってきた。だけど文庫版あとがきで「回心」のようなことが書かれていて、安心した。

「還暦をすぎるころから、私は「無が一番いいのだ」という漠然とした直感を抱くようになった。空間も、時間も、物質も、意識も、文字通り何もないとすれば、どんなにラクであろう。われわれは悩むことも悲しむこともない。死を恐れることも後悔にむせぶこともなく、他人と比較してわが身の不運や愚かさを嘆くこともない」



 中島は哲学することによって悩むことや苦しみことをみずから選び、そういった道を放棄したふつうの考えない人たちの人生を非難してきた人だ。そこまで極端にやらないで、ときには安易な方法を選んでいいのではないかと思ってきた。だけど論理と哲学のすえにようやく安心の境地を中島は見いだしたようだ。自分自身がその道を通らないと絶対に納得しない哲学者の魂をずっともってきたのだろう。



カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫) 私の嫌いな10の人びと (新潮文庫) ひとを“嫌う”ということ (角川文庫) 孤独について―生きるのが困難な人々へ (文春文庫) どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか? (角川文庫)
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辿り着いたら、いつも雨降り

今晩は。お久しぶりです。

もう夏も終わりですね。

さて、今回も読み応えのある文章でした。

「明るいニヒリズム」を突き抜けて「無心」に辿り着いた、氏の哲学は一理あると僕は思います。

ですが、その地もやっぱり、どしゃぶりだったのではないでしょうか。

未来(のイメージ)と過去は実在する。

この前提で、具体的かつ実現可能なビジョンを達成する。
大切なのはプロセスであり、これこそ、個人主義ではないでしょうか(違うか・・・)。

僕にはギスギスした職場を「スローな職場」にしようという志があります。

批判はしたくないのですが、氏が「エセ哲学者」と呼ばれる理由は、書籍を発表し続けることにある気がします。

現代の映画と同じく、新刊本の殆どは蜃気楼です。
極論ですが、お金がかかるものは全て不要と言えます。

根強かった「読書 ≒ 善」の物語も、そろそろ終わるかもしれません。

読んでみます。

中島義道氏の本を読んだことはありますが、この本はまだ読んだことがありませんでした。しかも、私自身、うつ病で自分なんか生きる価値なんてない!と思っていた時期がありましたので、ぜひ読んでみます。
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