HOME   >>  レイライン・死と再生  >>  古代信仰の読解辞典のような本である―ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』
06 19
2012

レイライン・死と再生

古代信仰の読解辞典のような本である―ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』

4796700803エリアーデ著作集 第2巻 「豊穣と再生」
ミルチャ・エリアーデ
せりか書房 1974-07

by G-Tools


 この世界のコスモロジーの根本となる原型を知るのはこれほど適した本はない。月、水、聖なる石、豊穣、植物について語った各章は、この世界のコスモロジーの解読方法を明確に教えてくれるだろう。

 これらの意味合いを知ることによって、クリスマスや正月などの季節行事や、あるいは神話、民話、または神社の意味といったものの読み方を根本的に理解することになるだろう。未開民族、ヨーロッパ、日本とわけへだてする必要はない。根本的な同質性を世界のコスモロジーはもっているのではないだろうか。根源は共通したものなのである。

 その根源的な読み方を提示してくれるのが本書だと思う。日本神話や民話、神社であるとか意味がわからないなと思ってこの本を読むと、世界に共通した古代信仰のあり方からそれを読めるようになるだろう。根源の意味を解読した書が本書ではないだろうか。

 でもこの原始信仰というか原始宗教の世界に興味をもつのはむづかしいだろうな。これは農耕とか狩猟、漁業などに携わっている人でないと理解しにくい世界観かもしれない。都市に住んでいる人間にはあまり用のない世界観である。だからこそ季節行事とか神話や民話の意味が遠ざかるのである。わたしは山登りとかで古代信仰の形跡に出会ってからじょじょに興味をもったのであるが。

 この古代信仰というのは死と再生という循環の時間がとても大切な根本をなすようである。季節であれ、宇宙の創造であれ、死んでから再生する。植物や動物の食糧となるものは冬に死に絶え、春によみがえってくる。世界は死んでから再生する。

 それをもたらすのは生殖であり、大地や宇宙のような無生物と思われるものもおなじように生殖によって誕生・再生する。この祖形が古代のコスモロジーにとってとても重要な要となるようである。

 引用がかなり長くなってしまうが、世界観の要となる重要な部分を抜き出そう。



■月と繁栄と多産



「月は満ちたり、欠けたり、見えなくなったりする天体で、この天体の「生」は、生成、誕生、死の普遍的な法則に従っている。人間とまったく同様に、月は悲劇的な「歴史」をもつ。というのは、月は凋落して、人間の場合と同様、ついに死をもって終わるからである」



月には死と再生というこの世の循環的時間が象徴されている。この世界観の要のような存在である。

「そういう(月に似た)動物とは、たとえば、殻から出たり入ったりする蝸牛がそうであり、真冬に姿を隠し、春にまた現れる熊もまたそうである。蛙は、からだがふくれたり、水中にもぐったり、また水面にうかびあがったりするからそうであり、犬は、月の中にいるように見えたり、部族の神話的祖先だったりするからそうである。また蛇は姿が見えたり、見えなくなったりするから、あるいは、月齢と同じ数のどぐろを巻くから、あるいは蛇は「全女性の夫」であるから、蛇は脱皮するからそうなのである」



 月の性質と似た動物は月の象徴となったり、月が現臨しているとされる。それは「生きものたちの母」なのである。

「月はあらゆる豊穣の源であり、同時に月経の周期を支配する。月は擬人化されて、「女性たちの主人」となる。多くの民族は、月は人間の姿をして、あるいは蛇の形をとって、人間の女性と交わる、と信じていたのであり、今日なお、そう信じている民族もいる。

…エスキモー人の娘たちは、月を見ると妊娠するからといって、月を見ないのである。オーストラリア人は、月はドン・ファン的人間の姿で地上におり、女たちを孕ませてから、みすててしまうと信じている。

…ドイツ、フランス、ポルトガル、その他の国々では、女性たちは、睡眠中に、とりわけ月経中に、蛇が口から入りこんで、妊娠しはしまいかと恐れている」



 古代の人たちは月や太陽のような無生物にも生殖の捉え方を適用した。月は強力な繁殖力、生殖力をもち、だから女たちはその力によって妊娠すると思い、また人びとは死者の霊魂を遠ざけ、多産豊穣を祈願したのである。



■水と形なきもの



「水はどんな形態にも先行し、どんな創造も支えている。水に浸すのは、予め形成されているもの、完全な再生、新しい誕生などに逆行することを象徴している。なぜなら水に浸すのは、形態の解消、先在しているものの形なき状態へ回帰することに等しいからである」



 水が洗礼や禊にもちいられるのがこれでなんとなくわかるというものだろう。形あるものが形ないものに移行するものが水なのである。

「シュメール語のaは「水」を意味するが、同時に「精液、受胎、生産」をも意味する。「未開人」においては、水は精液と混同されている。ワクタ島の神話では、ある娘が処女を失ったのは、身体を雨にうたれたからである、と説かれる。トロブリアンド島では、英雄の母が処女を失ったのは、鍾乳石から水が数滴したたり落ちてかの女にあたったからである。(ピマ族でも)絶世の美女は雲から落ちてきた一滴の水で胎んだのである」



 水でさえ生殖の力や繁栄の力をもっていたのである。

「水にはあらゆるものが「溶け」、どんな「形」も水にくずれてしまい、どんな「歴史」も存在しなくなってしまう。以前に存在していたものも、水に浸してからは存在しなくなる。…水は一切の形をくずし、一切の歴史を破棄して、浄化し、再び発生させ、あるいは再び誕生させる力をもっている」



 水はあらゆるものが誕生する生命の源であり、死んだものが還ってゆく事物の源である。水による清めや禊は、創造がなされた「かのはじめの時」、太初の時を、一瞬のうちに現実化するのである。



■石と死者の魂



「それら(葬礼のための巨石記念碑)が建てられるのは、死者の魂を「定着させ」、魂のための仮の宿をつくってやることである。その宿りは、死者の魂を生者の近くに住まわせることになる、それにより魂がその霊的な性質によって賦与されている力をもって、畑の地味に好影響を与えるようにし、他方、魂が徘徊したり、害を及ぼしたりするのを防止するようにする」



「石は祖先の石化した霊である」といわれる。魂は石の中に住んでいるのである。

「石の中に「固定された」魂は、ただ肯定的な方向のみに作用を及ぼさざるをえない。すなわち豊饒化の方向である。そこで、石には「祖先」が住んでいると信じられている多くの文化では、石は畑や女性を豊穣にするための道具となっている」



 世界でも日本でも石が祀られている光景はふしぎである。どうして石なんか祀られていたのだろうと思ってきたが、このような説明でその理由の一端が垣間見えるのではないだろうか。

「インドでは、新婚夫婦は子宝が授かりますようにと、巨石にむかって祈願する。セイレム(インドの南部)の不妊の女性はドルメンの中には、妊娠させる力をもった祖先が宿っていると信じており、そのため女性たちは供え物(花、白檀、炊いた飯)を捧げてから、石をこするのである。

マイドゥ族の不妊の女性は妊婦に似た岩にさわる。カイ島では、子どもの欲しい女性は、石に油を塗る。興味あることは、同じ「豊穣石」に、商売繁盛を願う商人たちが油を塗ることである。

サン=ルナンでは、子どもが欲しい女性は、三晩続けて、「牝馬石」と呼ばれる大きな岩の上で寝るのであった。同じく、若妻たちは、結婚直後の数晩続けて、そこにやって来ては、腹をその岩にこするのであった。

カルナックからほど遠からぬところに住む、結婚後数年たっても、まだ子どものない夫婦たちが、満月の晩にメンヒルにやって来た。かれらは着物を脱ぎ、それから夫が追いかけるのを逃げながら、妻はその石のまわりをまわりはじめた」



 石には子どもを孕ませる力があると信じられていたのである。それは豊穣や商売繁盛の願いにもつながってゆくのである。ヨーロッパでもこのような民間信仰は残っていたようであり、日本でも公的なものが弾圧してきた歴史と重なるのである。



■大地と母なるもの



「かれら(子ども)は水棲動物(魚、蛙、鰐、白鳥など)によって運ばれて、母の胎内に呪的接触によって入れられるまえは、岩、深淵、洞穴の中で成長したのである。かれらは誕生前の生を、水、水晶、石、木などの中ではじめ、「子どもの祖先」の「魂」として、人間以前のおぼろげな形をとって、いちばん近い宇宙圏の中で生きていた、というのである。

アルメニア人は、大地は「人間が発生してくる母胎」と考えていた。ペルー人は、自分たちは山や石の子孫だと信じている。子どもの発生する地点を、洞穴、割れめ、泉などに定めている民族もいる。

ヨーロッパには現代もなお、子どもは沼沢や、泉、川、木などから「やってくる」という俗信が残っている」



 子どものときに橋の下で拾われたといわれたり、コウノトリが運んできたという話はなにも日本だけではなくて、世界やヨーロッパでもいわれていたことなのである。子どもは誕生前の生を自然環境、大地の母胎と思われたところで過ごしていたと思われていたのである。

「インディアンのウマティラ部族の予言者は、弟子たちが土地を鋤くのを禁じた。なぜなら、かれの言によると、「われらの共通の母なる大地を畑仕事によって、傷つけ、切り、引裂き、ひっかく、といったことをするのは罪」だからである。

アルタイ民族もまた、草をむしるのは大罪だと信じていた。なぜなら、もしそうしたら、ちょうど人が髪や髭をむしりとられたら痛がるのと同じように、大地も痛がるから、というのである」



大地は母の身体であり、母胎だったのである。そしてそれは痛みをもつものであり、母の身体のように傷つけてはならないと考えられていたのである。

「成人は火葬に付されるが、子どもは土葬にされる。それは子どもが地母のふところにもどって、後に再び生まれかわるためにである。「大地は子どもをしまっておく」。

北アメリカのフロン族が、死んだ子どもを道路の下に埋葬するのは、その上を通りかかった女性の胎内に子どもがうまく入りこんで、再び生まれかわれるようにというのである」



 子どもは亡くなってもすぐに大地から新しい再生をあたえられると信じられていたようだ。それだけその短い生が定着していなかったゆえにと考えられるのだろうか。

「大地は何よりまず、肥沃であるがゆえに、「生きて」いる。大地から発するすべては、生命を賦与され、大地にかえるすべては、再び生命を与えられる。

生とは大地の母胎からの分離にほかならず、死とは「わが家」への帰還、ということになる。

大地の使命はたえず産出すること、大地にもどって、自動力を失い、不毛に陥っているものすべてに形と生命とを与えることである」



 この生が終わったとしても大地はふたたび新しい生を与えるものだと考えられていたようだ。春が冬の死を再生させるように、冬に死に絶えた植物、動物をふたたびよみがえらせるように、人の生も大地にふたたび再生させられると考えていたのだろう。

 大地が母なる母胎と考えられたように、農耕と生殖も同一視された。女性は畑であり、男性は鋤であり、種子であった。それゆえに裸の女性が畑に種をまく豊作の祈願が生まれたりするのである。



■植物と再生と繁栄



「非業の死をとげた人間の生命は、植物において継続している。

すなわち、人間の生命は完全に消滅してしまわない限りは、それが創造したり、あらわれ出たりする可能性が、すべて消尽してしまうことはない。人間の生命が非業の死によって突如として中断された場合、生命は植物、花、実といった別の形をとって生きのびようとするのである」



 植物種から人種が発生したきたと考える民族も多く、祖先と考えられているところもある。ミャオ族、台湾の原住民、タガログ族、また日本人にもそのような信仰はあったという。「竹取物語」なんてその名残りだろうか。

「人間は、同じ植物の子宮からのエネルギーが単に放射されただけのものにすぎず、人間とは、植物のレベルでの過剰がたえずその出現を促している、かりそめの形態なのである。人間は、植物の新たな存在様態の束の間のあらわれにほかならない。

人間は死ぬときに、換言すれば、人間の条件を放棄するときに「種子」または「精霊」の状態で、樹木にかえる。

人間は宇宙の母胎に帰還し、再び種子の状態を獲得し、再び胚種となる。死とは、普遍的生命の源泉と再び接触することである」



 樹に祖先や神が宿るというのはこういう信仰をもとにしているのだろうか。

「宇宙は、木の形で表象されてきた。なぜなら木と同様、宇宙も周期的に生ずるからである。春は万物の生命の、したがって人間の生命のよみかえりである。一切は再びはじまる。要するに、宇宙創造の原初の行為がくりかえされる。

ひじょうに多くの植物儀礼に含意されているのは、人間の集団が植物のよみがえりに、したがって宇宙の再生に積極的に参加することによって、ともに再生するという観念である。



 エリアーデはあまり積極的にとりあげていないのだが、再生や創造をおこなうのは性交や生殖によってである。無機物や無生物、星や天体もそうなのである。大地に母の母胎が想定されたように、それらも性交や生殖によって再生・誕生し、繁栄する。人間はこの繁栄に参加し、促進するためにみずからも性交をさかんにおこなう。

「ヨーロッパの民間伝承には、古代儀礼の筋書の痕跡または断片が残っているが、それは木を飾ったり、木をかついで儀礼的に行列することによって春の到来をはやめようとするものである。

村人はめいめい森の生木の枝を伐りに行き、その枝を家に吊るして、その家の主人の繁栄を祈願する。これは「五月の木」または「五月の柱(メイ・ポール)」と呼ばれている。

かれ(清教徒作家)の言によれば、男女の若者たちは、森の中で一夜をすごすのであり、かられは神にかえてサタンを拝し、かれらは村に「メイ・ポール」を運びこむと、そのまわりで、皆が異教の踊りを踊るのである。そして娘たちのわずか三分の一だけが「汚されずに」家に帰るのだ」



 キリスト教はこのような祭りや風習をさかんに弾圧するのだが、それは生殖によって生命や春の繁栄をうながすという世界観と異なる立場や考えに立つからである。村々は収穫物や春の繁栄を願って、みずからも繁栄と再生の行為をおこなう。収穫を願う心はしぜんでとうぜんのことに思えただろう。

「ヨーロッパでは「メイ・ポール」を燃やしたあとの灰、または燃えのこりは、カーニヴァルやクリスマスに、畑に撒かれる。これは豊作や増収を促すという。

儀式で焼かれる木や材木がその効力を獲得するのは、それらがただ潜勢力に後退すること、火葬によって「種子」の状態に戻ることによってである。それらが表し、具現している「力」とは、もはや形としてあらわれることはできないので、灰や炭に凝集しているのである」



 シンデレラはもとは「灰かぶり」とよばれていた。民話にもこのような再生と繁栄の物語は混入しているのである。

「ある地方では、植物の代理人であり、植物の成長の刺激者である「五月の王」を殺す習慣がある。ボヘミア地方では、カーニヴァル祭最終日に、変装した少年たちは、町中を喚いて走りながら「王」を追いかけ、つかまえると裁判にかけて、「王」に死刑を宣告する。帽子をいくつもかぶせて首を長くした「王」は、首を切られる。

それはまず「カーニヴァルの死と埋葬」と「冬と夏のたたかい」であり、その後の「冬」の追放(または「死」の追放)と「春」の迎えいれが続く。

たいていの土地で、カーニヴァルの人形は「死刑を宣告され」、死刑を執行される(その執行の仕方はまちまちで、焼いたり、水に溺れさせたり、あるいは首をはねたりする)。

ここにあらわれているのは「死」の豊穣力であり、この力は他の植物の象徴も所有し、同じく、自然の再生と年のはじまりを祝うさまざまな祭りの際に燃やされた木の灰も、この豊穣力をもっている。「死」を追放し、あるいは殺害するや、ただちに「春」を招じ入れる」



 季節を再演することによって繁栄や豊作を願ったのである。人間は季節の象徴をかたどって演じることによってその循環を亢進したり、促進したりできると考えていたのである。




 このエリアーデの『豊穣と再生』は原始宗教、原始信仰の読解辞典のような本である。われわれはあまりにもこのような自然信仰の世界観を忘れている。

 だけれどこんにちの世界観や季節行事の根本にある考え方であり、こんにちでも多くの場面でこの解釈が顔を出す。意味を忘れていることが多く、だからその儀礼や慣習はわけのわからないものになっている。エリアーデのこの本はそのもとの意味を教えてくれるだろう。

 これらの原始信仰は神話の根本になった考えを担っているのであり、それは民話に顔を出したり、神社や祭られたものの意味を開示するものであり、季節行事のわけのわからない形式の意味を担っているものである。われわれはこの解釈や意味を知ることによって、その慣習や習俗の意味をようやく知ることができるだろう。

 この本のようにかつての世界観・コスモロジーの明解な解説書をわたしはほかに知らない。神話や民話、宗教、古代の自然崇拝の意味や解釈を知りたいと思ったら、ぜひこの本を読む解くべきだろう。


エリアーデ著作集 第1巻大地・農耕・女性―比較宗教類型論永遠回帰の神話 - 祖型と反復世界宗教史〈1〉石器時代からエレウシスの密儀まで(上) (ちくま学芸文庫)初版 金枝篇〈上〉 (ちくま学芸文庫)

神と自然の景観論 信仰環境を読む (講談社学術文庫)石の宗教 (講談社学術文庫)山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰 (講談社学術文庫)蛇 (講談社学術文庫)

B000JBA92Y未開社会の思惟〈上〉 (1953年) (岩波文庫)
レヴィ・ブリュル 山田 吉彦
岩波書店 1953-09-25

by G-Tools


関連記事
Comment

金枝篇に出てくる王殺しには、初めて読んだ時には衝撃を受けました。
死と再生の観念は「膿は切って出す」という発想に似ているように思えて小気味良く感じます。

現代社会は「権威追従主義」と「責任者不在制」が両立している、膿の溜まりまくった世界だと思います。王様をやっつけてやりたいです。
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top