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05 05
2012

社会批評

なぜ知識社会には物質と労働の軽侮がおこるのか

 社会でひとつのことに価値がおかれるとその原理にしたがって社会は秩序・階層づけられる。その価値をもつ者が社会の権力者・統治者として祭り上げられ、その価値にしたがった序列が社会にいきわたる。

 物質が尊ばれた時代は、金持ちやモノをたくさんもつ者が権力をもったり尊称される対象となる。社会はその価値が最大化される方法とテクノロジーを編み出し、最適化される。

 物質の時代には人とモノが一箇所の都市に集まるように航路や鉄道、車道が全国にくまなくはりめぐらされる。モノを生産し、流通するしくみが社会の至上目的になり、物質にあふれた時代を生み出す。モノをつくりだす労働と勤勉に価値がおかれ、人々はその物質過剰社会にむかって規律づけられる。

 知識は物質社会において物質の生産や流通の効率化のための道具として発達する。印刷技術、電話、ラジオ、映画、音楽、マンガ、テレビ、インターネット。

 物質を生産・流通するための道具として発達した知識・情報はやがて権力と価値をもちはじめる。知識・情報が目的化されはじめ、知識をもつもの、情報や影響力を伝達・配布できるものが勝者になってゆく。物質の道具にすぎなかった知識にこそ価値があるという思いや認識がめばえ、知識の伝播が目的化される。

 知識が至上化されると、物質が軽侮されたり、貶められたりする。物質の価値に煩わされると、知識の価値を追えなくなるからである。

 とくに物質時代には勤勉と労働に価値がおかれるので、知識を享受する時間がない。物質時代は物質の生産と流通が社会正義なので、その他の活動の価値や意味を許されなくなる。物質と知識の価値と権力のつなひき・こぜりあいがくりかえされ、やがて知識が権力や価値をもつような時代がくるのだろう。

 知識は物質をないがしろにする価値を生み出す。主観や内面が大事になり、物質や外界に関心をそらしているようでは主観や内面の価値を追えなくなるからである。

 物質の時代には知覚の細密さが求められ、知覚の客観性が大切になる。主観や心に依存する外界や物質の条件があっては困るので、主観や心は無化されるか、外界から切り離される。心の状態に左右されない外界や客観があってはじめて、物質の細密さ・正確さは図られる。数量化・計量化される客観世界がそれゆえ物質時代には重要になる。

 知識の時代にはぎゃくのことがおこる。物質を軽侮する価値観がおこり、客観的な細密さや正確さは重要でなくなり、物質にふりまわされない、もたない、物質に欲望をもたない価値観が奨励される。物質は主観や内面を乱す・惑わせる忌避するもの・悪魔になる。

 物質に価値をおかない中世には清貧や隠遁の思想・生き方が流行したり、社会の価値観や階層を決定づけた理由がそれでわかるというものである。知識に価値がおかれるとシーソーのように物質の価値が貶められる。

 物質が軽侮・忌避されるようになると物質の生産・流通に必要だった勤勉や労働にも価値がおかれなくなる。労働は知識の享受の時間を削り、主観や内面にひたる時間を奪うからである。労働は物質時代には社会的善や正義であったが、知識に価値がおかれる時代がくるとその至上価値を失墜させる時期がくるだろう。労働は物質が神である時代の祭司に捧げる生け贄である。

 心に対する認識も変わる。物質時代には主観の外に主観にかかわらない客観的世界や外界があると思われる。心を切り離して、外界に客観的世界があると考えられる。この心と外界の分離は、心の責任を外界や物質と直結する考えに結びつく。わたしの不満や不足は外界や物質を変えないと満たされないと考える思い込みをつくる。客観的世界はわたしの心に左右されないという前提・基本があるからである。

 主観や内面を重視した知識時代には、外界や世界も主観にふくまれると考えるようになる。考え方や思いがわたしの感情や気分を変え、解消する唯一のものだと考えられるようになる。わたしの不満や不足は外界や物質の改善によって満たされるのではなくて、ただ心の考え方を変えたり、滅却したりして解消がめざされるようになる。物質に惑わされたり、左右されない心が至上化される。

 物質時代は「唯物論」であり、知識時代には「唯心論」になる。物質時代は物質を変えることで心の充足がめざされ、心自体での充足は求められない。心は忘れられる。物質だけがわたしや世界を変えられるという信念をもつ。

 反対に知識時代には心を変えることで心の充足が求められるので、物質の希求や改善をのそむことは心の敗北であり、軽侮されることになる。物質をのぞむことは恥や敗走なのである。

 物質と知識はシーソーのような関係にある。こんにちは物質に価値がおかれ、金持ちが尊敬され、権力をもつ時代である。そのなかで部分的な知識権力の奪回や回帰、爆発もおこなわれながら、知識の権力の向上や発展が進行しつつある。

 知識が社会の権力を握り、知識層が権力の司祭になり、社会全体が知識・主観に向かってのヒエラルキーや価値観が完全に樹立されるのはいつになるのかわからない。

 しかしそのときには金持ちと物質に価値がおかれた社会のテーブルはひっくりかえり、知識を至上においた価値観の転覆がおこることだろう。そのときには金持ち時代の価値ヒエラルキーとまったく異なった社会が生まれていることだろう。

 中世ヨーロッパの教会や聖職者が権力を握った時代、日本の仏教や僧侶が権力の階層をかけあがった時代と似たような価値観・ヒエラルキーの時代が、知識社会とよばれる将来にやってくるかもしれない。そのときには知識の原理・原則に社会は方向づけられるだろう。


▼知識社会・工業社会
知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる (PHP文庫)第三の波 (中公文庫 M 178-3)評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っているヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)清貧の思想 (文春文庫)


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