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04 25
2012

社会批評

評価経済社会の次にくるのは「清貧の思想」なのか

 評価経済社会論が話題になっていることもあって、堺屋太一の『知価革命』(85年)を軽く読み返してみた。岡田斗司夫の『僕たちの洗脳社会』(『評価経済社会』の元本)のかなりの種本になっている本だ。

 この本で知識の革命をへた時代は、物質主義の真逆の価値観をもった中世のようになるのではないかと予想した。もたない、働かない、ただ思弁や内面のみに価値をおく時代だ。


4569562620知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる (PHP文庫)
堺屋 太一
PHP研究所 1990-06-15

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 堺屋太一は古代を近代のような物質主義におかされた時代であり、その物質主義は中世にいちど廃れたと区分してみせた。「暗黒の中世」とよばれるように、西洋が宗教的停滞性に後退して、イスラムや東ローマの後塵を拝していた時代だ。

 この時代に主観や想像といった内面に沈潜する文化や価値観が前面に押し出され、物質主義は後退した。

 古代には写真のような細密画がえがかれるのだが、中世には子どもの絵のような稚拙な絵が多く描かれる。それは現実やリアルを重視しないで、主観や想像に価値をおかれた社会の空気をそのまま反映していたとされる。

 Mandeville_cotton.jpg
▲おいおい、中世の人は草から羊が生えて綿になると?


 物質主義の時代には合理性や労働が尊ばれ、金持ちが尊敬される。しかし中世には働かない休日がどんどん増え、物質を得る活動より内面に沈静したり、宗教的活動に価値がおかれる生活を送るようになった。

 働くことも、物質や金をたくさん集めることも社会では尊重されなかった。かわりに貧困や脱俗の聖者が人々の尊敬を集めた。



 中国でも隠者が評価される時代があり、日本にももちろん仏教僧がさかんに漂泊や隠遁において貧困のなかの心の静謐さや高貴さを追い求めてきた歴史があるのはご存知のとおりだ。鴨長明や吉田兼好などがいるし、西行や良寛などの仏教僧もいる。

 物質や金をたくさんかき集めることの対極の、もたない、集めない生き方のなかに精神の自由・高貴さをもとめた生き方が社会で尊重される風土が、中世の日本や西洋をおおっていたのである。

 堺屋太一は知価革命、知識社会とよばれる社会にはふたたびそのような社会風潮が戻ってくるのではないかと予想した。金持ちが尊敬されていた時代から、まったくぎゃくの貧困の中に心の高貴さをもつ者が尊敬される時代が、物質社会から知識社会の転換においておこるのではないかと予測した。


4167523035清貧の思想 (文春文庫)
中野 孝次
文藝春秋 1996-11

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 物質社会から知識社会においては、最高の価値がひっくりかえるのである。尊崇されていたモノをたくさんもつ金持ちは地に墜ち、かわりにモノをもたないでひたすら思弁や心の内面に沈静した賢者が崇拝される。

 もしこのような物質社会から逆転した価値観が多くの人に共有される時代になると、こんにちの常識やあたりまえと思われていたものも、まったくひっくりかえることもありえることだ。わたしたちの常識やあたりまえが通用しない知価社会が、現在のネット社会を経由して興ってゆくのではないのか。



 堺屋太一はもちろん数百年、千年の文明論的スパンで知価革命を考えている。今日明日、ころりと変わるわけではない。この本が書かれた85年からもう26年もたっているが、金持ちや労働が尊ばれる社会風潮は変わっているわけではない。おそらくは潮の変わり目を見るのはわたしたちの人生が終盤にさしかかったころかもしれない。

 今日明日、労働が放棄されるわけではない。今日明日、貧者や隠者が崇拝されるわけでもない。今日明日、金や金持ちの尊敬が地に墜ちるわけでもない。それでも潮はすこしずつ変わってゆくのかもしれない。



 堺屋太一は社会が大きく変容する要因に資本と労働の分離から、知識を糧とする社会でふたたび資本と労働が合致するゆえにこんにちと大きく異なる社会が生まれると考えた。

 大きな組織、雇用といった形態が必要でなくなり、個人が知識をもった生産主体になるのである。知識をもった個人が、組織や雇用で労働を強制されるこんにちの大量生産社会と大きく異なる社会形態があらわれると考えるゆえんである。

 わたしたちは組織や労働といったわたしたちを縛りつけていたものから解放されるのだろうか。それらは物質を大規模に生産・流通させるために必要だった合理的な形態であった。物質の生産・流通のために、われわれは労働や組織といったものを尊んできたのではないのか。



 物質の時代は主観が無視されて、客観が尊重される社会である。わたしの外界に客観的世界が存在するという考え方が主流になる社会である。外界は心や主観にふくまれず、心の外に存在すると考える。

 もし主観や考え方を変えれば心の平安や感情を変えるという考えが社会にひろく受け入れられたら、外界や物質を変えないとわたしに幸福や平穏はおとずれることはないという捉え方が一掃される。

 物質や外界を変えないとわたしは幸福になれないと考えるからこそ、物質主義はどこまでも追求される。心の外に客観的世界があるという捉え方は、物質主義の時代に欠かせない教義・ドクサである。さもないと物質や金を追わないと幸福にならないという教義をひろめられないのである。

 主観が尊重される社会は物質や金で幸福が買えるという考えは一笑にふされるだろう。



 基本的に人は評価や名声をもとめる生き物である。物質主義の時代もモノや金をたくさんもつことによって評価や賞賛をまちのぞんだ。物質の評価というのは不幸なことに、物質の満足を求めるがゆえに、評価されたい人の絆やつながりを非効率や非合理という理由で断ち切ってゆくからくりをもっている。

 ほんとうは人に評価・賞賛されるためにたくさんの金・物質を集めたのだが、労働や効率のために評価される人のつながりを断ち切る。ためにますますもっともっとモノと金が必要だ、心の充足がないのは労働に時間を奪われているのではなく、まだまだモノと金が不足しているからだと考える。

 物質と金は評価されたい者からますます亀裂を走らせ、ためにもっともっとモノや金が足りないと思わせるものなのである。



 ネットやケータイの発達は人々をもっと身近にひんぱんに結びつける。評価や賞賛はこちらのほうがもっとひんぱんであり、充足されるだろう。モノや金を経由しないでもよい評価形態を見つけたのである。人はこちらの評価方法のほうに引き寄せられてゆくだろう。
 
 もともと人はほかの人の評価や必要とされることを求めていただけである。だけど物質をより多くもつものが尊敬される時代を得た。それが社会に有益でかつ豊かさをもたらす時代条件がそろっていたのだろう。しかしそれは人々のつながりや評価といったものを、金や労働のために断ち切る社会条件をも極めるもののようらしい。



 はたしてこんにち進行中のネット革命や知識革命というのは文明の価値基準を真逆のものに変えてしまうのだろうか。

 労働は厭われるものになり、金や金持ちは尊崇されなくなり、休日や自由の時間が多いことが正義となり、物質より心や思弁、芸術的価値を追うものが崇拝される標準基準になる社会。

 テーブルをひっくり返して、さかさまにしたような社会。

 こんにちの人々の心の中にそのような価値基準をもっている人たちはたくさんいる。いまでは冷遇されているそれらの価値は、こんにちの社会や意識の中ではまだ実現されない萌芽にすぎないのかもしれない。


 未来の知識社会というのはすでに多くの人々の心の中に潜行しているのかもしれない。

 だが、もちろんこれは文明論的スパンで見るべきだという警告がつくのだが。



▼堺屋太一のいう中世の価値観はどの本で描かれているのか。
4122003725中世の秋 (上巻) (中公文庫)
ホイジンガ 堀越 孝一
中央公論新社 1976-09

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4000220608アッシジの聖フランチェスコ
ジャック・ルゴフ 池上 俊一
岩波書店 2010-07-30

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4003364023宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)
W.ジェイムズ 桝田 啓三郎
岩波書店 1969-10-16

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