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03 14
2012

セラピー・自己啓発

心をなぜまちがって捉えてしまうのか

 心のまちがった捉え方にはつぎのようなものがある。

 



・感情を他人や出来事のせいにしてしまう

・思考や感情を選択できるものと思っていない

・他人や出来事を否定していれば、物事が解決すると思っている

・否定や怒り、憎しみで他人や外界が変わると思っている

・他人や外界の憎悪や否定は自分を罰していることに気づかない

・心や感情を主体にしないで、他人や出来事の責任にする

・感情は思考がひきおこすことを知らない

・思考や考えを透明で存在しないものと考えてスルーしてしまう

・思考は思考にすぎないのに現実だと思ってしまう

・頭の中にあるものは世界のどこにもないことに気づかない

・感情はリアルに感じられるものだから、存在しない思考を実体あるものとカン違いする

・過去は現在の心象であることを忘れて、存在しない表象にすぎないことに気づかない

・存在しない思考や過去を現実のものとして感情することができる

・思考を捨てれば感情もないことに気づかない

・思考を捨て去る、選択することもできることを知らない

・思考はいつも噴出しつづけるのでそれが虚構や頭の中だけのことに気づかない

・思考や過去の想起は空想や虚構と同じ存在しないもので、感情はそれによって起こるので実在のものとカン違いする

・思考や過去の想起によっていつも現実に存在しないものを相手にする夢見ている状態になる

・思考や過去の想起は頭の外にはどこにも存在しない夢である

・これらのことは思考を捨てて頭を空っぽにしないと気づかない





 心はさまざまなものをカン違いする。日常の経験ではなかなか気づかないのでその夢世界の中で日常をすごすことになってしまう。

 さいしょのつまづきは感情の責任を他人や出来事に帰してしまうことである。わたしの気分は他人の行動やことばのせいだと思ってしまう。自分の考えや思考がその感情をつくっており、選択できることを知らないし、思考や考えは透明で気づかないものなのでスルーしてしまう。

 そして他人や出来事が変わるまで不快な感情をもちつづけて自分を罰するのである。

 すべては思考が感情をつくっていることに気づかないからであり、その考え方を変えたり、消したりすることを知らないからである。自分を自分で罰しているのに他人のせいにずっとしつづけてしまう。知識の不足の一点だけである。

 これは「新しいものを買えば気分が晴れますよ、幸福になれますよ」という物質主義の時代のせいでもある。外界を変えれば気分が変わると教える社会なのであって、心の転換により気分を変えてはいけない社会なのである。心の転換で気分を変えられれば物質社会は踏んだりけったりである。

 われわれの時代というのは心が主体であることを忘れた、忘れ去られた時代なのである。そうすることによって物質の進歩をとげた時代なのである。

 思考を捨てれば感情もないことも、不快な気分になる考え方を変えられることも知らないのである。選択の主体であることに気づかされない。そうして他人や外界を変えようと必死になって不快な気分のとりこになって、外界の奴隷になる。

 頭の中の思いや思考というものは頭の外にはどこにも存在しないものである。空っぽなのであるが、空っぽであることに気づかない。

 おそらく思考から起こる感情が実感として感じられる実在のものだからだろう。感情がリアルに感じられるものだから、思考や心象はリアルに実在すると思うようになってしまう。

 しかし思考というものはどこにも存在しないものであり、夢や虚構と同じものである。映画やドラマは虚構であり、世界のどこにも存在しないものなのだが、われわれは泣いたり、笑ったりできる。われわれが捉えている現実というものも同じである。どこにも存在しない考え方というものが起源になっている。

 過去もリアルに感情をひきおこす実在のものと思ってしまう。しかしそれは過去自体ではなくて、現在思っている過去の心象にしかすぎない。どこにも存在しないものだが、激しい感情もおこせるのでまるで過去が現実に存在するように思ってしまう。

 感情のはげしい反応を引き起こすから思考や心象は現実に存在するものだと思うのだろうが、頭の外にはどこにも存在しないものである。どうして感情をひきおこすものを現実に存在するものと思うのだろうか。映画やドラマはどうだろうか。現実とどう違うのだろうか。

 思考というのは頭の外にどこにも存在しないものだが、頭の中ではとぎれることなく噴出する。墨を吐く自動機械のようなものである。その反復によって、実在しない頭の中の思考が現実だと思われるようになってしまう。

 実在しない世界が現実の中央、主役になってしまうのである。もうわたしたちは夢の世界で泣いたり、笑ったりして抜け出ることはできない。

 わたしたちがその夢でひきおこされる感情の世界から抜け出すのは思考の自動機械を止めたり、その思考の世界に乗らないことだけである。頭を空っぽにしたり、思考を雲のようにながめてしぼむまで放っておくことだけである。その機会が習慣になれないと夢の世界から抜け出ることはできない。

 けっきょくのところ、われわれが夢の世界に憩いつづけるのは知識がないだけである。こんにちの仏教や禅がこのことを教えてくれることはない。おかげでわれわれはハンドルのないクルマであちこちにぶつけて電信柱を罵る毎日を過ごすことになる。


▼これらの本を読んでやっとわたしにもわかりました。
リチャード・カールソンの楽天主義セラピーどう生きるか、自分の人生!―実は、人生はこんなに簡単なもの愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)無境界―自己成長のセラピー論人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)

グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門自我の終焉―絶対自由への道存在の詩 和尚 OSHO時は流れず大乗起信論 (岩波文庫)

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脳のあやまち

私は心は間違わないと思います。
心が間違うのではなく頭が間違う。
こころが間違う事はない。
それは私達の感情に良心の呵責というサインがあるから。

迷いながらも進む人生に幸あれ~。
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