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トラウマ年表
1987 村上春樹『ノルウェイの森』
1989 ベルリンの壁崩壊、日本のバブル絶頂期
1990 バブル崩壊、不良債権の蓄積、土地価格の下落
1991 ソ連崩壊
『羊たちの沈黙』
1992 ダニエル・キイス 『24人のビリー・ミリガン』
1993 就職氷河期はじまる
1994 ロバート・K・レスラー『FBI心理分析官』
1995 阪神大震災、オウム真理教事件
事件のワイドショー化
TV『エヴァンゲリオン』、『沙粧妙子 最後の事件』
1996 『イグアナの娘』、村上龍『ラブ&ポップ』
1997 神戸小学生殺害事件
金融、証券会社の大型倒産
『真昼の月』、村上龍『イン・ザ・ミソスープ』、劇場版『エヴァンゲリオン』
アダルトチルドレン本多数出版
TVのコメンテーター出演、小田晋、福島章、町沢静男、香山リカ
1998 ホームレスの増加、自殺者の増加
斉藤環『社会的ひきこもり』
野島伸司『聖者の行進』
1999 野島伸司『リップスティック』、『美しい人』、ダニエル・キイス「五番目のサリー」
天童荒太『永遠の仔』、東野圭吾『白夜行』
2000 西鉄バスジャック事件
TV『永遠の仔』
森真一『自己コントロールの檻』
2001 アメリカ同時多発テロ事件
2002 小沢牧子『心の専門家はいらない』
宮本みち子『若者が社会的弱者に転落する』、中島義道『カイン』
2003 斉藤環『心理学化する社会』
2006 TV『白夜行』
2008 リーマンショックによる世界的株価暴落、年越し派遣村
秋葉原無差別殺傷事件
2009 『アイシテル~海容~』
2011 東日本大震災、福島原発事故
『それでも、生きてゆく』、映画『白夜行』
▲もしほかに知っている重要な作品があったら教えてほしいです。
宇野常寛によると大きな物語が終わったあと、「正しい生き方」「正しい意味」を社会が与えてくれなくなったから、ひきこもるしかないといったのが『エヴァンゲリオン』だという。その流れの中で、トラウマやアダルトチルドレンなどの心理学的用語が世間に頻出するようになったという解釈でいいだろうか。
大きな物語が終わったあと、人はどうしてひきこもったり、心の傷やアダルトチルドレンといった心理学的探索をはじめたのだろうか。それは大きな物語の終焉と関係のあることなのだろうか。
心理主義化は映画やドラマ、小説などにあらわれ、97年の神戸小学生殺害事件以降、17歳を中心とした凶悪事件が連続しておこり、人々に凶悪事件が増えていると思わせたのだが、データ上では少年の犯罪件数は一貫して減りつづけていた。マスコミが凶悪事件が増えたと思わせていただけだった。
心理学化はとうしょは「ネアカ/ネクラ」のブームであったり、製造業からサービス業の拡大によりコミュニケーションが重要になった時代に、うまく同調できない人の駆け込む先ではなかったのかと思う。恋愛の商業化による疎外感も心理化を押し進めたと思う。
心理学はどうしても「個人化」や「自己責任」に原因を求めてしまう学問で、必要以上に自己を責めてしまう学問であったと思う。コミュニケーションの不調を社会学やハウトウものに求めていたら、また違った経緯がおこっていたと思う。他人や社会に責任をなすりつけたり、ガス抜きができない状況が、より自己叱責に駆り立てた。
しかしマスコミにこの流れがとりあげられるとどうしても猟奇殺人や多重人格といった異常心理や犯罪心理などのセンセーショナルなものにとびつき勝ちになる。ニュースは事件しかとりあげないし、映画やドラマはセンセーショナルな題材で観客をひきつけなければならない。
猟奇殺人や異常心理にカッコよさや深遠さ、インテリ臭といったものが付与されて、トラウマをもつことがカッコいいとかインテリであるとかの転倒したナルシズムがかもし出されていった。
そのような培養条件のなかで、少年たちが異常心理を買って出て、舞台のうえで踊り出し、ワイドショーは連日、犯罪少年たちの過去の履歴や生育分析に踊ることになった。男子高生は少し前の女性高生ブームのころに影の薄い存在であった。ピカレスク(悪漢物語)でみずからのネガティブな勲章を勝ちとったのである。
笛を吹いたのは心理学に興味をもった人たちであったり、心理学者であり、マスコミやワイドショーであった。舞台のうえで踊ったのはみずからの人生を犠牲にして勲章を勝ちとった男子高生たちであった。
これは大きな物語の終焉と関係のある話なのだろうか。日本が坂を転げ落ちる時代にどうして人はトラウマやアダルトチルドレン、異常心理といった物語に傾倒していったのだろう。人はなぜみずからの内部にあるかもしれない異常心理といったものを炙り出さなければならなかったのだろうか。
もしかしてバブル崩壊の原因、うまくいかなくなった犯人探しが、むずからの内部にひそむ異常心理や心的外傷といった物語を選択したのだろうか。失われた十年の責任はみずからの内面にひそむ異常心理やトラウマだといって、自己を責めつづけたのだろうか。一億総懺悔をしていたのだろうか。ちょっと狂的である。
日本がうまくいかなくなった原因は経済学や国際経済情勢に求められるべきであった。工業社会の終焉や右肩上がりの成長が終わった時代に、その原因追求と対策を日本の社会は見いだせなかったのではないか。経済情勢の変化と対応を見いだせなかったばかりに内面の犯人探しへとひきこもるしかなかったのだろうか。
00年代は経営学者のドラッカー・ブームがつづいている。堺屋太一も工業社会の終焉とその先の道すじに目星をつけている。経済分析と対策はまったく見当がついていないわけではない。
ただ社会の多くの成員は経済学で原因を追究するという選択肢をもたなかったのではないか。経済学的な素養や経済学的な見方というものを一般社会はもちえなかったのではないか。それゆえに内面にひきこもって、異常心理に責任探しを転嫁するしかなかったのではないか。
社会の成員の多くは日本経済がうまくいかなくなった理由を見つけられるわけではない。関心世界も日常やマスコミやスポーツ、物語であったりする。目の見えない洞窟のなかで、犯人探しをしていたのが心理主義化ではないだろうか。多くの人にはうまくいかなくなった経済状況というものは見えないものである。