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02 08
2012

社会批評

ヒットチャート的編集から自分好み編集へ

 大ヒットしたものはブームがすぎるとまるで省みられることはない。過去の遺物となってしまって、消却されたもどうぜんのあつかいになる。ゴミである。いいものであったり、価値のあるものであれば、いつまでも見られたり読まれたりするものではないのか。ヒットしたものは読みつがれる価値のないものか。

 マスコミは時系列で編集されたものが多い。新しいものに価値があり、古いものはもうゴミ。新聞はきのうの日付は価値がない。新しいものに価値があるとみなすことによって、過去を捨てるように仕向ける編集法がとられている。そうすることによって新しいものが売れて、過去のものを捨てさせる。

 音楽もヒットチャートという時系列の編集法をとることによって、過去のものを捨てさせるように仕向けて新しいものを買わせる。古いものにまったく価値がないと見なすような編集をおこなうことによって、新曲だけに価値があるという購買行動に走らせる。

 新聞もヒットチャート的編集をやっていて、新聞を読むというのはヒットチャート的な編集をうけいれるということである。どの記事が一面トップにきて、どの記事が除外されるのか、一位から順位をつけられてゆく。新聞はこのような新しいものに価値をおく編集をおこなうことによって過去を捨てる。歴史や経緯、構造といったものをさっぱり捨てる。

 テレビやラジオは放送であって、そのときに視聴しなければもう視聴できない。だから視聴者は見なければ得られないので視聴器のまえにすわらせる。タイムセールと同じようなものである。ビデオやカセットテープができるとそのような習慣はすこし打ち砕かれたわけだが、いっしょに同時間に同体験をしたいという行動も多い。

 ネットのホームページはむかしカテゴリ分けされていて、なんどいっても少ししか更新されていなくて、かなり動きのないメディアであった。ブログは日付で編集することによって、つぎつぎと更新されるという時間の躍動をもたらした。でもぎゃくに過去の記事はまったく顧みられないという行動もおこした。

 ツイッターはリアルタイムで見ないととり逃がしてしまうという時間更新性をひんぱんにすることによって、視聴者の行動を吸引した。放送に近い形態をもったということだろう。更新が随時にひんぱんなので、新しいことがおこっているかもしれないという期待を抱かせる。ホームページのなんどいっても更新されていないという不動性とえらい違いである。

 音楽も本もパッケージに収められているから、ほんらいはいま見なければ失われるということはない。テレビのようにその時間にいなければ見られないということはない。だけどヒットチャートやベストセラーリストをつくることによって、新しい売れているものに価値があって、古い時間がたったものはゴミという価値基準を宣伝する。ヒットチャート的消費というのは古いものを視野から消すことによって、新しいものに価値があるという行動基準を加速させる編集法である。

 hitchart2.jpg
■即効性があるのがTVやツイッター。本やCDは更新がもうないので、ヒットチャートで価値の新旧を早める。


 われわれは新しいものしか価値がないという基準にずいぶん慣らされているのだが、はたしてそうなのか。音楽は新しいものしか価値がなくて、古いものはゴミなのか。映画は新作だけがよいもので、旧作は見る価値もないものか。本は新作しか読むべきものはなくて、古典はゴミなのか。

 そんなことはないだろう。マスコミのヒットチャート的消費に慣らされているだけである。ヒットチャートというのはみんなが好むランキングで、自分の趣味・嗜好とたいてい違う。自分の好みや必要のカテゴリでは分けられていない。自分の好みで探そうとすれば過去にさかのぼってそのカテゴリで探したほうが早いし、そこは好みの宝庫であるし、いいもの・価値あるものもたくさんつまっている。

 ヒットチャート的消費というのは自分好みの編集を許さないのである。古いものは価値がない、新しいものだけに価値があるという思想である。古いものを遮断して、新しいものをひたすら待ち望ませるようにする思想である。

 創作物や知識というのはなんでもそうだと思うが、自分の好みや必要で探すのがいちばん大事だ。自分で必要とするものをキャッチすることがいちばん自分のためになり、自分の必要を満たすものである。ヒットチャートが満たすものはみんなが必要としている新しいものだけである。自分の必要でも好みでもない。大衆の新奇性や好奇心の欲求だけである。

 みんながほしいものは自分がほしいものとはかぎらないし、だいいちそういうものばかりに頼っていると自分が必要としているときに必要とするものを見つけれない。時間で編集されたものから、自分の好みや必要で編集されたものを見つけることがけっきょく、自分の用途をいちばん満たすのである。

 本や音楽というのはモノによってパッケージされているから、古いものもいつまでも残る。テレビやラジオのようないまを逃せば見れないという緊急性はまったくない。だからこそヒットチャート的に編集することによって、過去の価値を減じさせなければならなかったわけだが。

 新聞はヒットチャート的な編集によって過去を捨て、新奇性やニュース性だけに目を奪わせ、歴史や経緯、構造をきっぱり排斥してしまう。ニュースにとらわれるということは、この世でいちばん必要なはずのものごとのなりたち、ありよう、経緯、構造といったものから目をふさぐことである。新聞やニュースだけになった社会はなんて愚かで危険なことかと思う。ニュースを読めば教養がついたり、世の中がわかると思い込むのはとんでもないカン違いである。

 ヒットチャート的消費を離れたものでは、本でいえば岩波文庫とか新潮文庫の古典文庫などがあるだろう。時間編集と対極のところにある数十年、数百年のスパンでいつまでも読みつがれる古典である。時間消費から離れるにはこのような古典や名著を読めばいいだろう。いまも読まれる普遍性や必読性を見つけてみるべきだろう。社会の構造や経緯を読むのは社会学や経済史とか、思想とか民俗学を読まないと見えてくることはないのである。

 音楽や映画もパッケージされたモノだから新作ばかりではなくて過去の名曲や名作はいくらでもさかのぼれる。時間編集では過去はゴミや消却されたものであるが、自分の好みやいいものという基準で編集してみれば、数十年前の古典に自分の好きなもの、いいものがいくらでも見つけられるかもしれない。アーティストになる人はたいてい過去の名作にさかのぼっているのではないだろうか。

 いちばん大事なのは自分の好みや必要を見つけることである。本ではとくにそのことがいえて、自分が何を必要としていて、どんな知識をほしがっているのか、見極めることが必要になる。自分の必要以外はゴミだと思えるくらいの編集法ができれば、時間編集の呪縛から逃れられるだろう。

 時間編集は自分にとってはゴミが多すぎるのである。

 古いものがゴミなのではない。自分の必要を満たさないものがゴミなのである。そのような編集法を見つけたほうが自分のためになるだろう。


▼発想の元になった本。セイゴウさんはあらゆるものに編集を見ろと教えてくれました。後者は耳にはさんだだけですが、情報は時間ごとに整理しろといってましたね。
4022613254知の編集工学 (朝日文庫)
松岡 正剛
朝日新聞社 2001-02

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4121011597「超」整理法―情報検索と発想の新システム (中公新書)
野口 悠紀雄
中央公論社 1993-11

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