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01 21
2012

社会批評

「問う力」を身につける

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 2012年1月20日(金)の上田紀行のtwilog←内容はもっと多岐にわたっています。


 上田紀行がきのうのtwitterで問う力の減退についてツイートしていて触発されたので、問う力について考えてみたい。

 なぜ問う力が必要なのか。

 問いとはこの世界に対する好奇心の発芽である。問うことによってこの世界に対する好奇心や粘着力は倍化して、知識への枯渇が急激におこる。問いなしには知識への渇望はおこらないのである。

 問いは問うた者にその問題の「当事者」にさせる。問いは知識がむこうからやってくる状態をもたらす。

 いまの学校で教えられることは理解力と記憶力の増強だけである。テストをすればそれで忘れられる。自分の問いから発せられない知識はたんなる「記号」であって、通過される表層の「記憶データ」にすぎない。学校の知識がてんで身につかないで忘れられるゆえんである。「当事者」としての知識ではないのである。

 問いは知識の乾いたスポンジ状態をもたらす。しかしわたしの失敗として、「知識のための知識」に溺れる弱点がないわけでもないとさいきん気づいてきた。

 「なぜ?」、「どうしてなんだろう?」と問うことは知識への渇望をもたらして関連知識を強烈に吸引させる原動力になるのだが、知識を得ること自体が目的化してしまう。それ自体は目からうろこの気づきをもたらしてくれて世界観を変えることもあるし、ずっと疑問に思っていたことが言葉で解けたときの喜びは知識への快楽を満たしてくれる。だけどそれは知識を得ることの快楽だけであって、実行やじっさいに役立つ行動をうながすための知識にならない。

 わたしとしては「なぜ?」、「どうしてなんだろう?」と問うて答えが見つかったなら、それなら「どうすればいいのだろう?」、「どうすればもっとよくなるのか?」をセットに問うべきだったと思うのである。「どうすればよりよくなるのか?」は「なぜ?」の問いとともに問われるべきである。でないと知識はたんなるデータ、行動や結果をもたらさない博物館になるだけだ。

 問うて知識をえるだけなら学者やもの書きに役立つ知識になるだけである。学者や物書きになりたい・なった人にとっては必要な方法であるが、一般の人はそのような知識をいくら得たところで知識をたくさんえたり賢明になれるかもしれないが、行動や結果が求められる現実社会でなにかの利益をえられるわけではない。いっぱんの人がいちばん必要とするのは現実の世界で行動や結果の改善や利益がえられることなのである。

 この問う力は知識をなりわいとする人しか必要でない方法かもしれないと思っていたが、トヨタやビジネスマンのあいだでも問う力が必要とされているらしいことを知った。トヨタでは「なぜ?」を五回くりかえせといわれているそうだ。「なぜ?」はビジネスでも改善や向上をもたらす知識の再発見・再編をもたらすようである。知識を生業とする人だけではなく現場でも求められる方法なのである。

 ではどやって問う力を身につけるのか。自分の身のまわりの疑問や不思議に思うことをいつまでも抱えもって、粘り強く問いつづけることをやめないことである。かんたんに答えが得られたと思ってそこでやめてはならないし、だれかに「そんなことを考えてどうなる?」「聞くな」とかいわれても問いをもちつづけることである。

 どうも日本は疑問をもってはならないとか質問してはならない、なんでなんでばっかり聞くなという風土があるようである。疑問や考えることは日本のこれまでの慣習や慣行に疑問を抱いたり、ほかの道を切り開くことになるので質問や疑問は封じ込められてきたのだろう。疑問をいだけばこれまでの慣行・システムに乗り込めないので、みずからひたすら疑問を封印してきたということもあっただろう。まわりが当てにならないならさっさと自分ひとりの疑問に封印したらいいだけのこと。

 疑問を問えばあれもこれもなんで、あれはどうしてなんだろうとつぎつぎと疑問がわいてくる。決してひとつの問いにとどまらないし、ひとつの答えで収まるわけがないのである。学校が教えるような答えがひとつしかないような世界ではないのである。正解や正しい答えがあるような世界ではないのである。

 問いを継続させる方法としてまっ白な紙に疑問の答えを書きつらねてゆくことである。つぎの文章を書こうとすればまっ白な答えのない世界にむりやり向き合わなければならない。このまっ白で疑問だけがわきあがる状態が知識への渇望を最大限にする原動力になる。このつぎの一文を書けないという状態が知識の渇望をいちばんもたらす。

 自分ひとりで問うということは幼稚で稚拙なものとならざるをえない。なにかの識者や知識人のように気の利いた文章や解答が書けるわけではない。もしここでさっさとだれかの書いたことや本に頼れば、自分の問う力、考える力を身につけられないだろう。

 さいしょは本や資料に当たらないでひたすら自分の頭で考えるという作業が必要なのだろう。この自分の頭からなにも出てこない、まっ白だという状態を維持することが大事なのであって、そこで自分ひとりで考えつづけることによってようやく思考と文章を自分でつくる能力が生まれてくる。この能力がつちかわれないで本や資料にあたっているとずっと借り物の他人が考えてくれたもののなかで考えつづけることになる。

 問う方法を身につけるにはかんたんに本や資料に当たってはならないのである。大事なのは本に書かれていない問いの答えを探し求める方法を見つけることがいちばんなのである。自分の問いが本やだれかに答えられているとは限らず、資料が見つからず、自分ひとりで答えを探し出さなければならないことのほうが多いからだ。自分の人生でぶちあたった問題に他人やほかの本がすべて答えてくれていることはありえない。

 わたしはむかしは自分の疑問を大事にしていたものだが、いつの間にか本で答えられていること、本の中に疑問を見つけることがかなり多くなってしまった。本は解答や答えにかんたんに答えてくれるからだ。本で答えを探せばいくつもの本を読んで知識はだいぶ増える。しかし自分で問う力、答えを見つける能力は衰えてゆくいっぽうなのである。

 これまでの学校の勉強というのは答えを覚える能力ばかり叩きこまれてきたのであるが、知識でいちばん大事なのは自分で問うことの内容を見つけることである。答えより問いを見つけるほうが大事なのである。

 問うてみることによってこの世界は謎や疑問だらけになる。知識の渇望はそこからおこる。自分の問いなしに答えだけ与えられても表面的な「記号」や「記憶ごっこ」に終わる。問うことは自分を「当事者」にすることである。問うことは疑問をつぎつぎともたらし、知識をいもづる式にひきつれてくる。興味があって四六時中考えている事柄の情報はむこうからやってきて、ふだん目につかないことも気づかせてくれる。

 問いというのはわたしをマイナスや空っぽの穴にしてそこに知識がどんどん吸い込まれるブラックホールをつくることである。問いや疑問なしの答えや知識は自分のからだを暴風に変えてしまい、知識をどんどん遠くや空に吹き飛ばしてしまうことである。



▼関連文献をあまり見つけられませんでした。トヨタのなぜを五回くりかえせという本はあったと思うけど。
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細谷 功
PHP研究所 2010-08-19

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