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01 14
2012

社会批評

人はなぜ過去あるいは未来の物語に関心をもつのか

 テレビの時代劇がほとんどなくなったそうである。なぜこの時代に時代劇は魅力をうしなったのだろう。

 人はなぜ物語のなかで過去に関心をもったり、あるいは未来の物語に興味をもつのだろうか。その関心のベクトルは社会の方向感覚と関係あるのか、社会の過去志向あるいは未来志向は社会のなにをあらわすのだろうか。

 わたしは7~80年代の少年時代をほとんどSFマンガやSF映画を見てすごしたから時代劇の魅力をちっとも感じず、時代劇になにが求められていたのか当事者としてわからない。時代劇はダサい、格好悪いと思っていた。人はどうして関心のベクトルが過去にいったり、未来に分かれたりするのだろうか。長年の疑問だが、解けない。

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 かんたんな印象として未来は希望であり、過去は反省である。時代劇というのは反省であるというのはあまりにもわたしの勝手な独断であるが、過去は終わってすでにこないものである。どうしてそういうものに人は関心をもつのか。過去の終わってもう存在しない時間をどうして現在の人は物語として生きる必要があるのだろうか。

 SFというのは未来の科学技術や社会制度の希望にいろどられているから夢見られる。科学が進歩する世の中というのは未来が希望なのである。もちろんSFが描く世の中は人類滅亡後の世界やディストピアのような悪夢も多い。未来は不安であり、絶望であり悲劇であるかもしれない。しかしまだこない明日である。

 過去はノスタルジーである。現代と違った社会、機構があったという世界のムードに浸る。もし過去が違っていたら、もし現代が過去のようであったら、といったもうひとつの世界を垣間見せる。

 時代劇はたんじゅんでワンパターンな勧善懲悪が予定調和的にくりかえされているという特徴があったと思うが(偏見を認めるが)、惨劇や怨恨をもとにした復讐や報復をおこなうといった物語が多かった気がする。過去の物語志向というのは悔恨や後悔のベクトルが向かわせるものだろうか。

 時代劇でわたしの印象に残っているのは『子連れ狼』や『木枯らし紋次郎』や『必殺仕事人』などである。社会から不遇をかこい、社会の周縁や日陰で生きるヒーローたちが多かった気がする。抑圧されたエネルギーをバネにして報復や復讐をおこなうことが人々の溜飲を下げたのだろうか。

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 こんにちを支配している忘れてならない図式は「先進国」と「後進国」という「進歩史観」の図式である。社会や科学技術は進歩してゆき、過去の技術・社会はどんどん古く使い物にならなくなるという発展史観をもっている。過去は原始人や旧石器人のようなサルをバカにするような図式ができあがる。

 わたしたちはこの図式を現代の世界じゅうに適用して先進国をほめたたえ、後進国をバカにして原始人あつかいする目をもつし、その図式は自国の歴史も適用され江戸時代、縄文時代と古くなるに従い原始人のような生活をしていたと蔑視するし、この見方は都市と田舎という比較においても用いられ、田舎はバカにされつづける。

 時代劇はこの図式にしたがえば発達していない未発展の遅れている社会である。遅れている社会にどうして人は物語の舞台を求めたのだろうか。われわれの社会はアメリカやヨーロッパのような先進国はしっかり見ようとするが、遅れたアジアやアフリカの土俗的な生活に興味をもつことは少ない。しかしアジアの後進国にも日本のむかしや郷愁をさそう土地も多いようで若い人に人気があったりする。

 時代劇は遅れた社会の舞台を借りることによって、われわれの後進意識、遅れている、時代からとり残されているという意識を緩和したのかもしれない。先へ先へとすすむ社会、新しいもの新しいものとせっつく社会に一筋の小休止を提供したのかもしれない。

 時代劇はいまの時代、衰退し、かわってテレビドラマにあふれている時代は現代である。現代の人は現在志向がかつてないほど強まっている。SFというのはマンガやアニメで多かったのだが、日本のテレビドラマはずっと現代に舞台をおく物語が多かった。ハリウッド映画ではSFを舞台におく物語が多かったのだが、日本の映画がSFに舞台をおくとどうもつくりごとめいた白々しいものになった。日本に未来はしっくりこなかったのである。

 人々は時間の目をどうして未来、あるいは過去に向けるのだろうか。未来はこの先どうなるのだろうという不安あるいは希望から見られ、過去はあのときこうしておけばよかった、もしあのとき違う道があったならという後悔や悔恨から見られるものではないだろうか。あるいは過去はよかった、しあわせだっという郷愁から見られるものかもしれない。

 時代劇はほとんどなくなり、現在志向の物語が人々に見られている。それは肯定することもできるし、否定することもできる。たとえば過去や歴史をかえりみることがなくなり、現在しか見なくなった、歴史と切り離された現在の充実と利益だけを求める時代という批判も可能だし、あるいは未来や現在を切り離せるほど現代は満足していて充実しているともいえる。過去の後悔や悔恨から時代劇が見られていたとしたら、時代劇の衰退は好ましいことだろう。

 社会は未来を夢見る時代のほうがいいのだろうか、それとも過去をしっかりと見すえる時代のほうがいいのだろうか。時代が必要としているのは現在を見るだけではなくて、未来や過去に敏感なタイプの人かもしれない。現在だけに関心と充実をもとめる人ばかり増えれば、懸命な未来の指針や過去の教訓をみちびける知識を枯渇させるかもしれない。われわれは時間のどちらに目を凝らすべきなのだろうか。

 中井久夫は未来のちょっとした徴候に敏感な人たちを分裂病質と分類し、先取り的なかまえで生きるタイプの人たちが社会にはたした役割を考察している(『分裂病と人類』)。

 ぎゃくにとりかえしのつかないことになったと後悔するうつ病質や反復強迫質の現代的役割も認めている。工業社会や商業社会というのは過去に強烈に執着しなければ完遂しない社会機構ではないのか。いつまでも過去の貯蔵にこだわる社会生活が工業・商業社会の根幹をにぎるのではないのか。時代劇の衰退はこのタイプの人たちの減少にもかかわりがあるのだろうか。

 時間の関心意識、ベクトルは社会のゆくえや方向を決めるものかもしれない。


▼時間意識に迫った文献
分裂病と人類 (UP選書 221)時間と自己 (中公新書 (674))自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

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