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12 12
2011

社会批評

日本にとって天下を獲るとはどういう状態か

 まえのエッセイで大河ドラマ『江~姫たちの戦国』は権力の認定の物語に興味を魅かれたと書いた。権力はどうすれば権力をもったと認定されるのか。信長なきあと、秀吉なきあと、権力の承認はどうすれば認められるのか、それを空白の権力を味わせながら進行形の追体験として見れたのが『江』の魅力であった。

 権力というのはただ戦に勝ったり、ひとり天下を宣言して認められるのではない。ほかの権力をもったいく人もの者や勢力に認められてはじめて権力をもつことができるのである。権力の承認のあり方はいくとおりもあって、かんたんなものではない。

 そもそも信長、秀吉、家康という三人の天下人は天皇と闘うという意志をひとつももっておらず、天皇から位の承認をもらっている。日本の歴史でふしぎなのは武家政権はひとり突出して天下を担ったのではなく、天皇の臣下というかたちで権力をにぎっている。日本のこのふしぎな二重権力とはなんだろうか。どうして天皇を滅ぼした上での権力を得て、国家統一をなそうとしなかったのだろう。ふつう国王になるのなら、ほかに王がいたら困るのではないか。

 権力の認定で思い出した本が鈴木眞哉の『天下史観を疑う』(洋泉社新書y)という本である。鈴木眞哉という人は在野の研究家である。天下人になるにはどういう条件が必要なのか問われている。(残念ながらもう絶版となっているようだが)

02116723.jpg天下人史観を疑う―英雄神話と日本人 (新書y)
鈴木 真哉
洋泉社 2002-01

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 戦国時代、京をおさえることは天下を支配したことと同等だと考えられていた。京都を押さえる政権は「全国性」を帯び、京都の主は天下の主と見られていた。戦国時代、京都を押さえていたのは三好長慶なのだが、この人はこんにち天下人とは見られていないが、畿内を中心とする七、八ヶ国を二代にわたって支配していたのである。

 源頼朝は天下人としてみられているが、地方に独立政権を打ち立てたというだけと見ることもできるし、有力貴族のなかにはかれに匹敵する者はいくらでもいただろうし、独立政権を打ち立てたのは平将門や奥州の藤原氏などもそうだった。ただ頼朝は御家人制によって全国に影響力をもつ「全国性」をもっていたから天下人だとよばれているといえる。しかし税収をもたらした国は多いときでも九ヶ国だけであった。

 信長は死の前には畿内をふくむ二十数ヶ国の主であるにとどまっているが、京都を押さえたことにより全国性をもつことができたようである。家来の秀吉が天下統一を果たしたことによることが大きいだろうが。

 武家の権力争いというのは決まって天皇や公家を滅ぼしてただ一人の天下人にだれひとりとしてなろうとしない。信長も秀吉も家康も天皇から位をもらっており、江戸幕府が滅んだときはその任を返上しているわけだ。ただひとり天皇にとって変わろうとしたのが、平将門だといわれているが。

 鎌倉時代、室町時代あたりまで一定の家格がなければ将軍や天下人になれないと人々の頭にしみついていたようである。それが崩れてだれでも天下人をめざせるという時代になったのは応仁の乱以後である。この乱によって古い家はつぶれてしまい、新しい家がおこることになった。日本全体の身体の入れ替わりがおこり、古い日本は消滅してしまった。そういう家格をつぶしてしまったトップランナーが北条早雲ということである。ただ秀吉も天下人になったあと、ずいぶんと家格をほしがっていたものであるが。

 しかし天皇家だけは武家や大名に位を与える権威をもちつづけた。ひじょうにふしぎなことである。どうして武力は武力それ自体で権威をもつことができないのだろうか。下克上の時代になっても戦国大名たちはやたらに中央の官職をほしがったし、そこらの武士も官職を私称して喜んでいた。

 天皇家はたくさんの権力を権威づけるジャッジメント、審判のような役割を保持する権威になっていたのである。権力はひとり超然として存在できるものではなく、支配される側の同意や納得がなければ支持されない。そういう承認を与える役割が、どれだけ武家政権が強くなろうとも、天皇に求められたのである。

 『日本書紀』のころは大和は日本全国を制定していたかは疑わしい。東北は蝦夷の国であったし、北海道はアイヌの国であったし、九州も制圧されていたかどうか。大和政権は畿内の権力豪族のひとつの政権であって、戦国時代にひとしい群雄割拠の時代であったかもしれない。奈良や京都、畿内の政権を担っていたにすぎないかもしれないのである。

 戦国時代には戦国武士の勝利者は天皇から位を授かることによって朝廷の承認を得ることができたが、そういう体制が整っていなかった先史時代には権力の認定を得ることはさらにむずかしかっただろう。天皇家は神の子であるという神話は当時の人にとってもどれだけ信じられたことか。しかし宗教的権威は天皇家の存続にとって大きな力を発揮したのだろう。怨霊思想と絡まって天皇には不可侵の権威が付与されていったようである。

 ぎゃくにいえば、権力をジャッジメントする審判の役割には人間界にはなくて、神界に頼らなければ審判する超越性、外部性をもちえなかったということなのだろう。外部の超越する存在を立てることによって、はじめて人間界の権力の承認や判定は可能になったということなのである。もし武将が天皇を倒し、とってかわろうとすれば、権力抗争におさまりがつかないジャッジメント不可能な原始の状態をよみがえらせてしまうかもしれない。人間界を審判する超越者は神界につながりのある超越者だけという物語が人間界の権力カオスの状態を押しとどめることができたのである。

 北朝鮮の将軍が国民に認められるためにさまざまな神話づくりが必要なように、国王や権力者も高貴な家柄や系譜、出身の経緯を必要とされるものである。そういうものがないとほかの権力や権威をもった者たちが認めないのである。武家や戦国の大名は源氏の末裔だとかのお墨付きを欲したものである。戦国時代のようにただ武力で勝ちほこったから天下の承認を与えられるというわけではないのである。権力はほかの権力・勢力に承認されてはじめて信認を得ることができる。人が権力を認めるとはかくも難しいものなのである。


▼この本にも武家はなぜ天皇の位を奪わなかったのかという問いがありますね。
4584392064天皇家はなぜ続いたのか (ワニ文庫)
梅沢 恵美子
ベストセラーズ 2005-02

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Comment

日本人と中国人

 私は勉強不足で、恥ずかしながら天皇のことについてもしっかり知らない。しかしながら日本の天皇は今も昔も絶対王政的な強権を持ってはいなかったと思う。ベンダサンの著書によれば、隣の大国の影響が大きく、大国の皇帝からの文化的、精神的独立のためにも、日本には特別な権威としての天皇が必要とされたという。天皇が日本各地を制覇して強権を手に入れたのではなく、まわりから担がれたのだろう。
武力で強権を手に入れた信長は、将軍義秋を京都から追放したが、天皇をずっとそのままにしておくつもりだったかは疑問である。利用価値があるものは利用する信長だったが、フロイスらカトリック宣教師達が、帝への謁見を望むと、「この国の王は世であるから、その必要はないと」彼らの望みを退けている。
伝統と室町時代の復興を願っていた光秀にとって、信長は野蛮で危険な人物だったに違いない。
光秀の信長暗殺にはそんな理由もあったのだろう。
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