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2011

書評 社会学

『善人ほど悪い奴はいない』 中島 義道

4047102490善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)
中島 義道
角川書店(角川グループパブリッシング) 2010-08-10

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 ニーチェは「神は死んだ」とか「永劫回帰」、「権力への意志」とかいろいろな面で語られるが、中島義道はニーチェのキリスト教道徳への批判を秀逸なタイトル『善人ほど悪い奴はいない』にまとめてくれたと思う。わたしはニーチェのこの道徳批判と真理批判の二面に強く魅かれてきた。

 この本は善人の個人批判では瞠目するものがあると思うのだが、わたしがニーチェの善人批判でいちばん重要だと思う人間の質が低くなることをメインに捉えていなかったので、そこは問題だと思った。

 「よいこと」というのは人より優れては人にとって「いいこと」にならないので、善の道徳を志向する社会はどんどん低劣に劣等に落ちてゆくというのがニーチェの道徳批判の骨格だと思う。この道徳や社会ダイナニズムを批判しない善批判はあまりにも片手落ちである。

 ドストエフスキーの『白痴』はおそらく善について語られた本だと思うが、善人は人より優れるなら人にとっていいことにならないので人より劣ることが善である。だから白痴にならざるをえない。もし善の道徳が社会をおおうならたえず人より劣り、おとしめられてゆことがすばらしい社会となってしまうだろう。優秀さや卓越さが善ゆえに抹殺される社会は進歩や向上をやめてしまうだろうという警鐘がニーチェの道徳批判にあったはずである。


4102035044善悪の彼岸 (新潮文庫)
ニーチェ 竹山 道雄
新潮社 1954-05

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「独立した孤高の精神性・独り立たんとする意志・大いなる理性すらが、危険と感じぜられる」

「控え目に卑しく服従しておのれを他とひとしく置く性格が、欲求の中庸が、道徳の名と誉れを僭するにいたる」

「高く強い品格や責任感をもっている人間は、ほとんどその存在だけで他人を侮辱するものとして感ぜられ、猜疑の的となる」

「公共に対して危険なものが多いか少ないか、平等を脅かすものがあるかないか――が、いまや道徳的基準である。ここでもまた恐怖が道徳の母である」――『善悪の彼岸』

 ニーチェの道徳批判はジョン・スチュワート・ミルの『自由論』による精緻な理論的説明のほうがよりわかりやすいと思うのだが、ニーチェは1859年に発表されたこの本の存在を知っていたのだろうか。


4003411668自由論 (岩波文庫)
J.S. ミル John Stuart Mill
岩波書店 1971-10-16

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「現代における世論の傾向には、特に、個性の顕著な表現に対してことさらに不寛容であるという特徴がある。普通一般の人々は知性において平凡であるだけではなく、性向においても平凡である。彼らは、何事か異常な行為に傾いてゆくほど強い嗜好や欲求をもっていない。したがって彼らは、かような嗜好や欲求をもっている人々を理解しないし、かような人々のすべてを、彼らの平素軽蔑している粗野で放埓な人々と同類と見なしてしまうのである」

「天才は、自由の雰囲気の中においてのみ、自由に呼吸することができる。天才ある人々は、天才であるが故に他のいかなる人々よりも更に個性的である。――したがって、社会がその成員たちのために、各自独自の性格を形成するのを労を省いてやろうとして提供する少数の鋳型に、天才ある人々が自分を適合させようとすれば、ほかの人々以上に、有害な抑圧をこうむらずにはいられないのである」

「もしも彼らが強い性格の人物であって、その羈絆(きはん)を打ち破るという場合には、彼らは、彼らを平凡化しえなかった社会の注意人物となり、「狂暴」とか「奇矯」とか、その他のいろいろな厳重な警告をもって指摘されるのである」

「(凡庸な大衆は)慣習化しているものに対する嗜好以外に対する嗜好をもつなどということが、彼らにはおよそ起こりえないのである。…彼らは民衆の中で嗜好するのである。…特異な趣味や奇矯な行為は、犯罪と同様に忌避されるのである」

 ジョン・スチュワート・ミルは「多数者の暴虐」や「慣習の圧制」といったものに危機を抱いたが、ニーチェはこの凡庸化・画一化の要因にキリスト教道徳の帰結を見いだしたのだろう。画一化した社会は進歩や発展をやめてしまうだろうという危機感が道徳批判や超人という言葉を生み出したのだろう。

 凡庸化し画一化してゆく群集という批判はのちのオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』やエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』、デイビッド・リースマンの『孤独な群集』などの「大衆社会論」にひきつがれてゆくのだが、その水源はニーチェであったり、ゼーレン・キルケゴール、アレクシス・ド・トックヴィル『アメリカの民主政治』などにその源泉があるのである。


大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)自由からの逃走 新版孤独な群衆アメリカの民主政治(上) (講談社学術文庫)


 中島義道の本はこの大衆社会論を視野におさめた善人批判をおこなっていないので、かなりのところ個人攻撃の鬱憤晴らしのような本に傾いている嫌いがある。なぜ善や道徳は批判されなければならないのかという根本の根拠や理由が説明されないで善人の個人批判だけがおこなわれれば、ただの弱者批判になってしまうだろう。

 善や道徳は人を低いもの、劣等なもの、凡庸なものにおとしめるダイナニズムをもつから問題で、憂えるべき問題なのであって、善人だけが卑怯で悪いものではない。善人は優れた人、天才をみずからの基準にひきさげる「よい道徳」と「劣者の正義」をもたらし社会の成長や向上をおとしめてしまうから問題なのである。善や道徳、慣習の支配するところ、かならず文明と人類の停滞と拘留がはじまることだろう。

 人にとって「よいこと」のなにが悪いのかと思うだろうが、道徳は人類の天才や発展を「善的」に抹殺してしまうのである、「善ゆえ」に。人を傷つけたり、おとしめたりすることは「善的」には悪いことなのだから。

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Comment

その通りだと思いました。
そしてその善人達はある特定の個人達を悪人に仕立て上げることで溜飲を下げ、自尊心を満たし、ひと時の欲求を満たすためだけに他者を利用することを正当化する、いわゆる大衆とはこういった習性を持つ集団だと認識しています。

やはり大きな要因は不安感なのかなと感じますが、イマイチピンと来ず、彼らはなぜを同様に行動規範を頑なに守るのか、その規範を守ることでどう感じ、どう思考するのかが非常に気になっています。

しかし善人とは言いつつ非常に巧妙に自分達は傷つかないよう振る舞いますので直接聞いても、そんなことはない、わからない等の回答を頂いています。
世間様とは本当に恐ろしいですよね。
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