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09 10
2011

歴史・地理

『日本列島を往く〈6〉 故郷の山河で』 鎌田 慧

4006031157日本列島を往く〈6〉故郷の山河で (岩波現代文庫―社会)
鎌田 慧
岩波書店 2005-07-15

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 バイクで山間部や田舎の景色をながめるのが好きである。大阪に住んでいるから紀伊半島の山々をめぐったり、奈良や和歌山、北摂、兵庫などの山間部を走ったりしている。そこで暮らしている人たちはどのような暮らしを営んでいるのだろうかという興味もわく。

 しかしこんにち地方での生活や暮らしを見せる情報というものが少なくなった。小学校の社会科で知識は終わってしまい、地方の暮らしが知らされることはほとんどない。民俗学にそのような知識が漁れる程度で、人々は地方の人たちがどのように生きてきたのかといった知識や蓄積に見向きもしなくなっているのである。

 鎌田慧のこの本は現在ではきわめてめずらしい本の部類になってしまったのではないか。この本では川舟の和歌山本宮町、塩づくりの能登珠洲市、ミカン畑と遊郭の瀬戸内豊町、そして炭鉱の長崎外海町、福岡県大牟田がとりあげられている。

 鎌田慧は炭鉱労働の閉山や大量解雇に熱い関心をもってきたようだが、私には時代も土地の感覚からもどうも身近に感じられず、あまり興味がわかなかった。ジャーナリズムからの関心は時代にもてはやされるけど、時代の関心にすぐに忘れ去れる欠点があるから、あまり深入りしたくないのである。

 鎌田慧は『自動車絶望工場』という本も書いているが、労働者を見守るという視点を強くもった人だ。どうしてこのような姿勢をもつにいたったのだろうか。そして労働に関心をもつルポライターやジャーナリズムが少なくなったことを残念に思う。

 本宮町では川くだりで木炭をはこぶ暮らしが描かれている。下りはいいが、のぼりは岸から舟をひっぱらなくてはならない。積荷も米や味噌、醤油などできるだけ多くつみたい。新宮の町で「荷物ないかのう」と商店の軒先をたずねてまわり、「川原乞食」とよばれていたそうだ。熊野川の人たちは学校を卒業すると多くは大阪などの工場にいちどは勤めに出ているようだ。

 山林は多くの雇用をつくりだしてきた大産業だった。伐採、運搬、植林、間伐、製材、林道の請負作業。繁栄時では山あいの村でもカフェや旅館が立っていた。いまは静かな風景になっている。

 奥能登珠洲(すず)市では塩づくりがとりあげられていて、海から塩水をなんども汲んできたりして、そうとうの重労働だったようだ。女性たちも働いていて、「かの塩汲女は炎天下に曝され、いつ髪を結ひしにもあらず、こし切れなる布子に縄帯して、色こそ黒けれ、髪こそ乱るれ、猿ともムジナともなく、人とは更に見えわかず、何ぞ男女の別を見んや」といわれている。

 隣近所がおなじような重労働をやるからおたがいに励ましあって、辛いとか厳しいとか、考える暇もなかったそうだ。ある爺さんは塩作りは家族みんなでやるために離れ離れの仕事ではなく、子どもは家族の仕事に協力する習慣をやしなうし、一家の結合力を強化するから塩作りをおこなっているといっている。

 能登半島の若者たちは北海道に渡った人たちも多かったようだ。わたしは地方の海辺で、夜中に煌々と灯りを照らしている漁船をみて夜中に働くなんて漁業もたいへんだなと思ったことがあるが、ここにその詳細がのべられていた。

 午後三時ころから出港し、二時間半くらいで漁場に到着、その後朝三時ころまで釣る。帰港はおよそ午前六時。ブザーが鳴るといっせいに釣りはじめる。いちどに三十尾もつくと四十歳以上の漁夫は腕力で苦労するそうだ。交替はできないし、手や腰が痛む。まったくの重労働であるそうだ。帰港しても荷揚げ作業で重労働。漁場が何時間も離れたところだと睡眠を充分にとれず、よほど体力がないともたない。

 瀬戸内豊町の島々では漁業に目もくれず、島々の土地に畑をひろげていった人たちのすがたが描かれている。明治41年ころにはミカンが大儲けで一年の売り上げだけで家一軒が立った繁栄の時代もあったようだ。しかしミカンの没落は一代でやってきた。山から担いで降ろすときはすこしでも回数を減らしたいのでそうとう重くなり、かなりの重労働だった。高度成長期にはミカンは20キロで千円もなったので、山を降りるときは「どっこい千円、どっこい千円」と自分を励ましたそうだ。人手がいるときは広島、三島などの職安に求人を出したそうだが(職安でそんな求人が出ていたなんて知らなかった)、重くてはこべない人もいたそうだ。

 むかしは北前船の碇泊地でもあったことがあり、遊郭も発達した時代があったようだ。華やかな時代もあったのである。「おちょろ舟」といって、舟に女性を売りに行く舟も出ていたそうである。ほかに「うろー、うろー」と声をかけてナベ焼き、まんじゅう、焼酎、果物を売りにまわる「うろ舟」もあった。

 炭鉱の町や閉山、大量解雇の話は昭和の中盤ころまで新聞を大賑わいさせていたのだが、あのころはどうしてあんなに騒がれたのだろう。いまはほとんどの人が思い出すこともないのではないだろうか。労働争議の中でも際だった注目度があったようである。おかげでぎゃくにわたしのようにジャーナリズムの騒擾のしっぽに乗るのがいやな者も生んだ。まだ尾を引いている。ところで炭鉱で働いていた女性は坑内はあつかったから、ほんとうに乳ブラブラ、へコ(帯)一丁で働いていたようだ。


新装増補版 自動車絶望工場 (講談社文庫)生業の歴史 (双書・日本民衆史)さまざまな生業―いくつもの日本〈4〉日本の民俗〈下〉暮らしと生業

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