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08 21
2011

セラピー・自己啓発

心は実在するものではない

 人間の脳は実在しないものを考えたり、思ったりする思考力や想像力をもっている。すべて空想や虚構で心は思われている。この勘違いをとりのぞこうとしてきたのが仏教や禅であり、わたしにはそれがどうして宗教とよばれるのかわからない。

 実在しないものを実在しないと理解させることはむづかしい。なぜなら思考や思いという習慣に人はどっぷりつかっているからで、それを実在か実在でないか理解するのはほかの場所に出てみないことにはなかなか理解しづらい。

 頭で描いていることは実在ではない。対象のことを思っていても、対象「そのもの」ではない。しかし人はいつか勘違いして、対象について想像や言葉で考えているのにすぎないのに対象「そのもの」と思い込んでしまう。対象の実在・非在が問題となってしまって、肝心の心自体が実在しないという部分が見えなくなってしまう。「地図」をじっさいの大地と思い込む勘違いにずっとつかりつづけるのである。

 心は想像したものにすぎないものに現実感や実体感をあたえてしまう。想像にすぎないものがあたかも「現実にリアルに」存在するものになってしまう。人が心で思ったり、考えたりすることはすべて「存在しないもの」である。しかしそれが実在する現実の脅威となる。人間の脳というものはそういうものである。大脳新皮質というものは虚構や仮構をつくりだす能力が発達したものである。

「思考は現実ではない」という指摘に感ずかれなくなってしまう。思考を「現実化」してしまう。わたしたちはその虚構にすぎない想像や思考にたいして現実の脅威や感情をもよわせるものにしてしまう。映画はすべて虚構である。でも人は虚構である映画にたいして笑ったり、泣いたりできる。日常の心もこれと同じで、対象は現実であるが、心で思っているということは実在するものではないのだ。

 心で思っていることが実在するものではないと悟らせるために仏教は瞑想によって思考を停止させる方法を教えた。思考は虚構や想像をつくりだし、いっときもやむことはないから、虚構の根である思考を断つ方法を教えたのである。自分の思考を他人事のように、空に流れる雲のようにながめて「脱同一化」することを訓練で覚えさせた。

 思考というのは自動機械のように勝手に生れて流れるものである。その思いに乗れば、虚構の劇場に閉じ込められる。思考に乗らなければ虚構の劇場に閉じ込められないということである。

 近代は思考や記憶力の優れないものは愚鈍で、白痴であるという政治的なイデオロギーを教えた。思考こそが自分が自分である証であるという考え方を常識にした。そのために思考の流れから降りることができなくなり、虚構や想像力の実在化劇場という檻の地獄に閉じこめられた。思考のない人間は宗教や政治集団に盲従する無知の民だと政治的な言説をプロパガンダした。おそらく長期的な不安を想像する思考というものは政治的な支配に適した長期的不安を抱かせる元になるからだろう。長期的不安を抱くものは政治的な支配にかしずきやすい。

 思考や言葉はいらない、存在しない不安を想像してずっと脅えつづけることのできる能力である。想像や空想を現実と思うことのできる能力のことである。この能力のおかげで人は将来や未来の不安や困窮を防げるようになったのが、その能力は同時に不安や恐れを現実のように感じる能力と同一である。想像にすぎないものを現実の恐怖と感じることができる能力である。そしてその恐怖に人は囚われつづけるのである。

 仏教や宗教はこの勘違いを解く方法を教えたに過ぎないと思う。想像に過ぎないものを現実を思っていますよと。しかしそれを悟らせるには自動にわきあがってくる思考というものを止めるという流れや惰性に逆らう行為が必要である。この訓練がむづかしいために、一般大衆には仏像や神を拝むという妥協策が世間にひろく広まったのではないかと思う。宗教で悟らせようとしたことと違うことが世間一般の宗教像になったのである。もちろん政治的有利さというものも与ったのだろう。

 思考を断つのがむづかしければ、エックハルト・トールのように時間に注目してみるという方法もある。過去は終わってしまってもう存在しないこと、未来はまだこない想像力の範疇。では現実の存在する事柄はいつあるのか。いましかない。しかしいまも一瞬ごとに過ぎてゆく。現実はどこにあるのだろう。すべては空想や虚構でしかないのではないか。わたしたちはすべて虚構や空想の恐れや心配に囚われているのではないだろうか。

 人間は勘違いしているのである。わたしたちが思ったり、考えたりすることは現実に存在しない。大脳新皮質というのはそういう能力のことである。これは現実に存在したり、実在するものではない。しかし人はその実在しない空想に一生閉じこめられているのである。この勘違いを悟らせるのが仏教であり、禅である。神や仏に政治的に依存して服従するものではない。

 わたしたちの通常の意識のありかたが虚構や空想であることを悟らせるのはかんたんではない。想像や空想、言葉や思考することそのものが「人間らしさ」「自分らしさ」と思われる時代の中を生きているからだ。思考は、言葉は「わたし」なのである。そして想像し、空想した実在しない虚構の意識世界のなかでわたしたちは生きつづけるのである。虚構の劇場から人は出ることはないのである。

 人間は頭や心で思ったことを現実に存在するもの、実在するものと勘違いして暮らしている。対象について思っても対象「そのもの」ではない。宇宙の星について考えても、それは宇宙の星「そのもの」ではない。でも対象「そのもの」と勘違いする。悩みや人間関係について考えることも心の中に仮構として描けるだけで、それは現実に存在するものではない。だけど実在と勘違いして暮らしている。ここがむづかしくて、勘違いしやすいところだ。

 頭の中に描くことはすべて存在しないこと、これに気づいたときに安らぎを手に入れられる。しかし人はついつい頭の中の幻想に現実感と実在感をあたえる日常に戻るのがクセになっている。仏教や宗教はこの勘違いを指摘しつづけてきたのだが、私たちの宗教像は神や仏に依存する政治イデオロギーになっている。


▼参考文献
人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)リチャード・カールソンの楽天主義セラピー自我の終焉―絶対自由への道無境界―自己成長のセラピー論禅 (ちくま文庫)

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