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04 02
2011

書評 社会学

『人はなぜ逃げおくれるのか』 広瀬 弘忠

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4087202283人はなぜ逃げおくれるのか ―災害の心理学 (集英社新書)
広瀬 弘忠
集英社 2004-01-16

by G-Tools


 わたしとしては災害時に人はどうして他人の言動や行動を叩き合うのかということを知りたくなった。twitter上ではとかく見解や考えの違う人をふだん以上に叩き合っていて、ひどいものだと思った。それは自粛論に尾を引いている。原発事故がおこってからも楽観論と悲観論の叩き合いがひどかった。日本はどうも災害緊急時の統制や規律においてなんらかの欠陥の起源を抱えているように思うようになった。

 この本は災害心理学という新しい学問を紹介している。やはりこの本のいちばんの目玉は、「パニックはまれにしかおこらない」という専門家の常識による「パニック神話」の修正だろう。

 一般の人は「パニック神話」を信じているために過小な危機をつたえて、それが逆に多くの被害をもたらすこともある。1977年にアメリカ・シンシナティ市のサパークラブでおこった火災事故でパニックを恐れて「遠いところでボヤが起こりました」と危機を過少につたえるような放送をしたために1350名中、164名の死者を出した。

 1942年にボストンのナイトクラブで488名の死者を出す火災事故がおこった。このときからパニックでおおぜいの死者が出たというパニック神話が信じられるようになったといわれるが、多くの犠牲者は有毒ガスで亡くなっており、パニックをおこす暇もなかったのではないかと考えられる。

 行政はむかし危険を一般に知らせると無用の混乱をひきおこすという常識があったが、もはやこのような態度はゆるされないだろう。行政もハザードマップ(災害予測図)を知らせるといった180度の転換をおこなうようになっている。

 パニックはおこらないわけではない。差し迫った脅威があったり、危険を逃れる方法があるときと、安全は保障されていないという不安感、コミュニケーションがなりたたないといったときにおこる。危機は強調されすぎてもいけないが、パニックを恐れて過少に危機を報告することもまた危険なのである。パニックをおこして出口に殺到したという説明があるが、出口がひとつしかないのにそれをパニック行動といえるのだろうか。

 危機や災害がおこったとき、人はもっと鈍感に感知するようにできているのではないか。正常の範囲内に見積もる。それを「正常性バイアス」という。

 2003年韓国の地下鉄火災で198名の犠牲者を出した事件があった。「軽い事故がおこりましたので車内でお待ちください」というアナウンスがあったため、煙が侵入してきてもじっと耐えて座っている乗客もいたのである。パニックで逃げまどう正常性をうしなった人々という災害観はもう古いのである。パニックは事故原因のスケープゴードにされすぎたのではないだろうか。

 生きのびる人はどんな人か。やはり若い人ほど生きのびやすいし、金持ちもそうだし、冷静で沈着な行動ができる人、タイムリーな意思決定と行動力をもち、そして生存の意志とあきらめない人である。危機感が強い人ほど避難の確率は高まる。冷厳な事実だが、災害は弱きを挫く。

 1954年、青函連絡船の洞爺丸の沈没で1150名の死者を出している。死亡率は88%。生き残った人の証言で冷静に座礁したから海岸が近いこと、ブイをつけ身支度をしっかりとして、泳ぎにも自信があったから助かったといっていた。もうひとりの生存者は水かさが増して窓の外に出るまでのタイミングをじっくりと待つ余裕があった。

 1923年、関東大震災では14万2800名の死者を出した。商業では大阪と肩をならべていたが、復興後におおいに発展することになった。社会が活力をもっているときには災害はよりいっそうの発展の契機になるが、社会の活力がうしなわれていると衰退の道をたどることになる。災害とは社会変化の先取りであり、歴史の歯車を一回転早めることになるのである。

 ともかくこの本では数多くの災害が記録されており、忘れていたり知らなかったりした大事故の死者の数の多さに改めて驚かされた。大災害でも人は忘れたり、鈍感になるようにできているのだろう。新聞やニュースでは真近の事故の大きさにしか思いいたらないものだが、人類は数多くの大災害を受けてきたのだ。事故の事例を読むと、リアルタイムで緊迫した状況が思い浮かぶかのようだ。

 さいしょの問いに戻るが、人はどうして災害時に人を叩きあうのだろう。周囲の状況を理解する手がかりもなく、正確な情報もないと、人々は不安の原因をつきとめようと問題のすりかえをおこない、不安の解消をなそうとする。そのときにスケープゴード、生け贄の子羊が生れる。恐怖と不安に脅える中で恐怖を合理化するかたちで原因が創作される。それがデマや流言になる。

 恐怖に脅えた人はデマを生み出すだけではなく、不安をもよわせたり、場違いなこと、たしかな情報でないものを発した人を叩く。言論統制や言論剥奪のようなことがおこった。災害ではなく、情報が悪いのであり、それを発した人は悪いとなって、言論を叩いたり、発言をさせないようにする。多くの犠牲者を出した黙祷と哀悼のムードをつぶす発言や行動をした者も不謹慎だとして叩かれた。恐ろしい情報も不安を煽るとして叩かれた。

 言論が封殺された。このような雰囲気のなかで事実をいうことはできるのだろうか。事実を究明することはできるだろうか。安心や安全、あるいは追悼や黙祷の雰囲気が優先される中で、危機や事実は究明されるだろうか。災害現場のほかに情報と言論のマス・ヒステリーがおこっていたと思うのである。災害情報において多くの問題と課題をのこしたと思う。

 
災害の襲うとき―カタストロフィの精神医学災害の心理―隣に待ち構えている災害とあなたはどう付き合うか生き残る判断 生き残れない行動人は皆「自分だけは死なない」と思っている -防災オンチの日本人-災害とトラウマ

生と死の極限心理/サバイバルの限界を考察する (こころライブラリー)犯罪・災害被害遺族への心理的援助―暴力死についての修復的語り直しデマの心理学 (岩波モダンクラシックス)流言の社会学―形式社会学からの接近 (青弓社ライブラリー)

流言とデマの社会学 (文春新書)
広井 脩


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