HOME   >>  社会批評  >>  戦後「概念」はいつ終わるのか
03 22
2011

社会批評

戦後「概念」はいつ終わるのか

senngo.jpg


 戦後からすでに70年近くになるのになぜ戦後「概念」は使われつづけるのだろうか。「戦後」はいつ終わるのだろう。戦後「概念」はなにをもたらし、なにを失ったか。

 「戦後」というのは戦後に起こった事件や事故を比較する対象に選ぶが、戦前のことはいっさい視野に入ってこず、参照にされない。戦前は隠され、見捨てられ、かえりみられることはない。戦前は分断され、遮蔽され、うち捨てられた。戦前に学ぶものがなにもないのだろうか。戦前の出来事は参照されないでいいのだろうか。

 軍国主義におちいった忌まわしい記憶として遮断される。しかし日本人や組織、風習は歴史を封印したからといって、180度変わることができるのだろうか。見えなくさせれば、それは終わり、消えるのだろうか。

 戦後「概念」は明治からの戦前をひとつながり、地つづきのもとして捉える視野をふさぎ、たとえば明治人や江戸時代の人たちの断絶や同じ日本人であるという感覚をなくす。まるでそれは「外国」や「外国人」のことがらのようである。日本人は戦後にリニューアルし、明治に江戸の外装を捨てた。もう同じ日本人でなくなったのだろうか。

 戦後「概念」は戦前の出来事を参照や比較の対象からはずす。祖父や祖母の代からはなにも学ぶことはなく、比較される価値のないものだろうか。戦前はわたしたちの同時代感覚をもたないただのフィクションなのだろうか。戦後という時代区分は同時代感覚を同じ地平から遮断する煙幕になるのである。

 日本は戦後「概念」で現代を捉えるが、海外の国はどうなのだろうか。比較対照する現代を戦後に区切って捉える国ははたして多いのだろうか。第二次世界大戦からのみを同時代と捉える感覚は他国にも共有されているのだろうか。他国では現代の区切りを何十年スパンでおいているのだろうか。この戦後「概念」は日本になにをもたらして、なにを除外しているのだろう。

 同時代感覚はなぜ戦後で遮蔽されるのか。それは社会体制や社会システムがひとつの区切りを必要とするほど変わったということ、宣言なのだろうか。歴史の同時代感覚というのはひとつの社会体制、社会風潮のことなのだろうか。それは非戦や非軍事国家というくくりをさしているように思われるが、はたして戦争を基準にした歴史感覚だけで歴史や過去をくくることは視野や経験の除外や閉鎖にみちびかないだろうか。

 好戦国家と非軍事国家の違いが歴史の参照や比較を区切る時代区分に値するものなのだろうか。戦前の社会や歴史を除外できるほど、過去にはなにも学ぶことも参照することもないといえるのだろうか。

 同時代感覚は何十年スパンでくくることが人間の歴史認識にとって有益かつ妥当なのだろうか。戦後「概念」はいつ終わり、新しい同時代感覚はいつくるのだろうか。戦後「概念」を終わらせるものはいったい何なのだろう。

 江戸時代には大きな「おかげまいり」は60年周期でおこっていたという。社会体制、社会秩序はある時間をすぎると硬直化や疲弊化をもたらし、内部では解決できず問題を処理できない体制の死をいつかもたらすものなのだろう。ある一定の既得権益や権力機構に利益や権力が集中する体制が長くつづくと下部階層に鬱憤や不満が蓄積され、体制転覆の圧力が高まる。

 明治には江戸時代の武士への不満や抵抗圧力が高まり、平民でも立身出世できる学歴階層の新しいシステムができ、新しい時代の芽吹きを感じさせた。しかしその官僚システムも敗戦により失敗と腐敗化を露呈した。だからこそ、敗戦を期に戦後という断絶歴史感覚は生れたのだろう。社会体制が新しい再生やリスタートを感じられる時代区分が戦後にやってきた。しかし戦後も65年がすぎ、膿みや不満もどんどん溜まりつづけている。

 同時代の歴史感覚というのは新しい社会体制、社会システムがもたらすものだろう。戦後「概念」というのはひとつの社会体制をさししめすものだと思う。この戦後の社会体制は戦後の65年をへて、疲弊し、腐敗し、人々の不満を高めつつある。社会体制の新しいリスタートが求められる時代が近づきつつあるのだろう。

 戦後「概念」はいつ終わるのだろう。なにをきっかけにして戦後は終わるのだろう。それはおそらく戦後の社会体制が終焉する契機になるもの、今日の社会体制で時代をのりこえられない危機や状況がきて、時代に楔が打ち込まれるのだろう。次なる社会的カタストロフィーとは何なのだろうか。そう遠くない将来にその契機はやってきそうな気がする。「戦後」体制は終わりつつあるのではないだろうか。

関連記事
Comment

「「戦後」の終わり」とは何か

こんにちは。

僕たちが現在を「戦後」と呼ぶとき、あの戦争の反省という作業が、僕たちが引き受けなければならない不可避の課題として当然浮上するはずです。

祖父は、いまだ自らの戦争体験に苦しんでいます。
加害、被害を含め、自らの戦争体験に苦しんでいる方々は、国内外に大勢いらっしゃるはずです。
そして、彼らのおおくは、
家庭のなかですら語る場をもたないまま、
語ったとしても黙殺されたまま、
語る必要性を問われないまま、
その体験の大部分を、墓場へともって行くでしょう。
彼らがそのようにしか生きられない空間こそが、「戦後」ではないのでしょうか。

あなたが何をもって「戦後」の終わりを告げようとなさっているのか、僕にはわかりません。
しかし、あなたにとって、まだ見ぬ未来を想定することと、「戦後」を終わらせることが同じだということはわかりました。
そんなあなたのなかに、悲惨な戦争体験を抱える方々は、存在の余地があるのでしょうか。
あなたが彼らを意識の外に放逐して、それでも築こうとする「時代」とは、一体いかなる「時代」なのでしょうか。
口の上で「戦後」が終わったとさえいえば、僕たちが本来引き受けるべき「『戦後』責任」は、すべてチャラになるのでしょうか。

あなたの「戦後」用法と、僕の「戦後」用法が、かけ離れているのは重々承知です。
僕には、あなたの「戦後」という言葉の使い方が、とても軽々しくおもえたのです。
ただ「戦後」が終わったと告げるためだけに、高尚な理論を構築していらっしゃるとすら思えてしまう。
それが、「戦後」を生きる方々を目の当たりにし、また自分も「戦後」を生きなければならない僕にとって、とても我慢ならなかったのです。

失礼な物言いになって申しわけありませんでした。
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top