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03 21
2011

社会批評

『三陸海岸大津波』 吉村 昭

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『風俗画報 大海嘯被害録』

4167169401三陸海岸大津波 (文春文庫)
吉村 昭
文藝春秋 2004-03-12

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 テレビでビルや高台、ヘリコプターから津波の様子は写されるが、多くの人は避難が完了していたのか。もし津波に巻き込まれたらどんな状況で逃れることができたり、のみこまれてしまったのだろうか。そういう想像力ばかり働くが、この情報が知らされることは少ない。それと過去、なんども大津波を経験したこの地域の歴史や経験がいまのテレビやニュースで伝えられることは少ない。それで昭和45年、1970年に出たこの本を読む。さいしょは中公新書だったそうだ。

 明治29年の大津波で2万6360名が死亡、昭和8年の大津波で2995名、昭和35年のチリ地震で105名。流失家屋はそれぞれ9879戸、4885戸、1474戸。

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「防災基礎講座 自然災害について学ぼう」から。(文字化けしていますが)

 明治29年の大津波は6月15日、午後7時32分に弱い揺れがあった。前兆としてマグロやイワシの大漁、川菜の繁殖、井戸の混濁、沖合いに青白い火が見えたそうだ。大砲のような音がして、日清戦争に勝ち、ロシアと緊迫していたころだったからロシア艦の砲撃と思うものもいた。

 死者は2万6360名で、とくに釜石、田老で被害がひどかった。流木にとりすがって三日後に海岸にはい上がった者もいた。釜石では150名が三貫島に泳ぎ着いて助かっている。風呂桶に入ったまま谷間まで運ばれたものもいた。沖合いの漁師は例外なく津波の被害をうけていない。海岸には連日のように死体が漂着し、野犬が食い荒らしたり、カゼという魚がはりついていた。うもれた死体は脂肪分が出るので水を流せば見当がついたという。

 明治の災害の記憶が覚めやらない37年後にまたもや昭和8年に三陸を大津波がおそっている。昭和8年といえば1933年、1929年の世界大恐慌の4年後で、失業者はちまたにあふれ、工場ではストライキ、労働運動が勃発していた。『蟹工船』が発表されたのは1929年、昭和4年だ。東北の娘の身売りが深刻な社会問題となっていた。官憲の弾圧、軍部の勢力拡大がおこり、社会不安が増していた。世情が似てきたといえる平成にふたたび東北に大津波が襲ったのは皮肉な歴史の巡りあわせだ。

 このときも先の津波と同じく前兆現象がおこっており、井戸の渇水・混濁、発光現象、大豊漁、そして大砲のような音をきいている。明治のころ津波は「海嘯(かいしゅう)」(海がうそぶく)とよばれたり、「よだ」とよばれたりしている。

 地震がおこったのは3月3日の午前2時半で、凍てつくような寒さの深夜で大きくて長い地震にとびおきた人は服を着て逃げる準備までするのだが、古老の晴天と冬期には津波はこないという言葉を信じてふたたび眠りにつくものが多かった。

 明治29年の津波のときには田老、乙部には336戸あったが、すべて流失。田老村では1859人が死亡、陸で生き残ったのはわずか36人だけだった。昭和8年には911名が死亡、流失家屋は428戸。一家全滅も66戸あり、絶家となった。

 昭和8年の大津波では体験の記録や子どもたちの迫真な作文ものせられている。波にさらわれて船の下で出られなくなったり、家の下敷きになり妻子をどうにもできないまま波にのみこまれ、かろうして陸にあがり、子どもの死亡を知る者。子どもと津波で倒れた屋根の下敷きになり、しだいに消えてゆく子どもの声を聞いていた母親。死んだ友達に声をかけると口からあわが出てきたという小学生の子ども。

 逃げる途中で家族にはぐれ、死亡や生存をじょじょに知ってゆく人たち。孤児になった女性は親類宅を転々とし、孤児同士で結婚した夫と家族はいまでも地震があればどんな日でも山に逃げるという。妹や母の死骸が何日か後にみつかってゆく姉妹。負傷したものたちは凍死してゆくものが続出した。高台に逃げると一時間ほどは助けをもとめる悲しい叫び声が聞こえてきたが、やがて聞こえなくなった。火事の中から「助けろー」という声も聞こえてきた。津波の水をかぶってぶるぶる震えるものもいた。

 津波のあとには高所への移転が目立ち、昭和8年ではさらに高くに住むようになったのだが、年月がたち津波の記憶が薄れるにつれ逆戻りする傾向があった。漁業者にとって高所は不便が大きい。まれにしかこない津波のために日常生活を犠牲にできないと考えるものが多かったのである。

 津波がくるのはわかっていても海岸線や海の近くに住居が建てられているが、不便と記憶の風化には抗えなかったようだ。それ以上に自然は予測をこえる災害と脅威をもっているとしかいいようがないが。

 昭和35年5月のチリ地震の津波はほかのときと条件がまったく違っていた。三陸で地震はおこっていなかったのだ。津波は地震のあとにくるものという思い込みがあった。気象庁もチリ地震によってハワイで60名の死者を出したことは知っていたが、津波警報も発令しなかった。引き潮があっただけだった。津波の第一波第二波には30分ほどの間隔があり、干上がった干潟で中学生が魚をとる余裕もあった。105名が亡くなっている。

 著者の吉村昭は田老町の10mの防潮堤にふれている。明治29年の大津波では50mの高所でも津波があがってきている。そのような大津波がくれば防潮堤をこすことはまちがいないといっている。しかし津波の力を損耗させ、被害の軽減をもたらすだろうといっている。今回の大津波ではひとたまりもなかった。

 全般に津波の被害度は明治から減少しているといっている。だが、自然の災害は人知と人間の技術をいつも凌駕する脅威をもっているものだ。どんな万全な対策、堅牢な技術で固めても自然は人の営みをこえてゆく。自然は人の努力や技術、罪をこえた存在だ。亡くなられた方々は人間の意味や努力、罪や罪責のとどかない自然の世界にはこびこまれた。


▼あまりにも警句が鋭い。「畑村洋太郎 失敗はつたわらない」


津波てんでんこ―近代日本の津波史津波の恐怖―三陸津波伝承録 (東北大学出版会叢書)津波から生き残る―その時までに知ってほしいことTSUNAMI―津波から生き延びるために津波は怖い!―みんなで知ろう!津波の怖さ

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