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03 05
2011

社会批評

なぜ自己啓発はすぐ宗教と断罪されるのか

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 自己啓発はなぜ宗教だと断罪されるのか。信念が叶うや願望は成就するといった自己啓発的言説はどうしてすぐ宗教的言説として断罪されるのか。

 自己啓発本はなぜ流行るのか? - 京大院生の読書日記

 けっきょく、物質的進歩の社会は心ですべてを丸く収めてしまうと物質的進歩をめざせないからだろう。心の不満や充足は外界の物質改善をもとめないと得られないと考えないと物質的進歩はのぞめない。

 不満や不足は心で充足してはならない。外界の物質的改善をもとめなければならないのだ。わたしの不満や不足は自分の考え方を変えれば収まると考えるようでは、外界の物質的改善はおこなわれない。わたしの不満は物質によってしか癒せないと考えないと、物質消費がおこなわれることはない。

 わたしの不満はクルマや化粧品やなんらかの消費物を得ないと癒せないと思い込まないと、商品市場が流れることはない。心の充足で満足してもらうと物質消費がさかんになることはない。心の満足は消費社会の目的と拮抗するのである。

 マルクス・アウレーリウスはいった。
「君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。ところがその判断は君の考え一つでたちまち抹殺してしまうことができる」

「今日私はあらゆる煩労から抜け出した。というよりむしろあらゆる煩労を外へ放り出したのだ。なぜならそれは外部ではなく、内部に、私の主観の中にあったのである」

 アウレーリウスは外界の責任にしていた心の苦悩や苦痛をすべて自分の主観の判断に帰した。外界の改善をめざすより、心の判断の改善をめざした。そういう人が自分の不満を解消するために他人を変えようとしたり、飽くなく物質消費にのめりこむだろうか。心の捉え方、考え方に不足や不満が生れると考える人は無謀な外界の変更をうながすことはない。

 物質主義者はこの心で世界が変えられるという考え方をすぐに宗教だと断罪する。心の存在が忌むべきものであるかのように扱う。心で世界が変えられるという考え方に拒否反応をしめす。心がなんの性質やクセをもたず、わたしを拘束して捕えるものではなくて、無色透明の中立物と思いたいようだ。この世界には視覚と目に見える世界しかないようで、心にはゆがんだフィルターも存在しないと考えたいようだ。

 心は物事の判断に色付けしてわたしの感情に喜怒哀楽をつける元になるものだ。心は言葉によってこの世界の見え方の分節化、実在化をもたらして、わたしたちの認識の世界をつくりだすものだ。このフィルターが物質主義者には見えずに無色透明なものらしい。目に見える世界だけに拘束されると思っているが、心という目に見えないものに拘束されるとは思ってもみない。

 世界はわたしと独立して別個に存在して、わたしをとりかこむものだと思っている。わたしは自分と独立した客観世界が存在すると思い込んでいる。わたしは世界をありのままに客観的に捉えられると思っている。世界をカメラに写すように正確に捉えられると思っている。わたしの心、言葉、価値という基準が認識にゆがみをもたらすとは夢にも思っていない。見えない心はたんなる透明の中立物と思いたいようだ。

 そのような物質主義、写像理論になにか利益はあるのだろうか。もちろん世は科学主義の時代であり、宗教が断罪され、体制外におかれる社会である。正統派に属するという自負と権力、安全をもたらすだろう。けっきょくはこの一点かもしれない。体制外ではないというお墨付きの利益だろうか。

 物質的進歩、消費的拡大をめざす社会にあっては物質的不満を抱いてもらわないと進歩も拡張もおこなわれない。心の満足で充足されては困るのだ。どこかの山奥にこもって修行されるのは非生産的すぎる逆行者なのだ。心の充足ではなく、物質的不満をおおいに抱いてもらわなければ困るという社会的要請が物質主義を伸張させるのだろうか。

 われわれはモノをつくり、それを売る社会で回っており、それで稼いで生きてゆける。経済の力は一国の軍事力や国際パワーも決定する。そういう経済的要請、条件が唯心論的関心をどこまでも体制外におこうという風潮と重なってくるのだろうか。外界の不幸、物質の不満が社会を成長・強大化するパワーの根源だという社会の洞察があるのだろうか。それゆえに心は宗教として断罪されるのだろうか。心を重要視することは非生産的だという厳しい目があるのかもしれない。ビジネスや経済社会のオキテといっていいだろうか。

 心の重要視にもとうぜん問題は多くある。宗教は偶像化や隷属化をよういにもたらすし、信心や信念はほかの集団からの対立や孤立をもたらす。ある意味、物質主義からの砦ゆえに閉鎖化・狂信化するともいえなくはないと思うが、反体制派として社会からも見なされてしまう。

 経済的物質主義やビジネス社会が心の帰着という考えにいくことを阻むのだろう。物質を回して貨幣を回すシステムにわれわれはとらえられている。どこまでも物質の不満と不足を抱いてもらわなければ困る。心の満足なんかを追求してウチの商品を買ってもらえなくては困る、ということで心はアンタッチャブルなものになったのだろうか。でも心を知らないことはハンドルをもたないでクルマを運転していることと変わりのない危うさをもっていると思うのだが。

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Comment

はじめまして。
大変興味深く拝読させていただきました。

途中、「自己啓発を宗教として断罪」することの問題を語っていらっしゃるにかかわらず、「自己啓発」を「宗教」として取り扱い、それにたいする評価について語っていらっしゃることに、違和感を覚えました。
なぜ問題がこのように複雑化してしまったのでしょうか。
僭越ながら、すこし考えさせて頂きました。
お付き合い下さい。

まず、おっしゃるように、心と物質が対立するものとします。
自己啓発を宗教として退けるひとは、心にたいして物質が優位だととらえているとします。
それは物質的進歩や消費拡大を肯定することになるとします。
しかし、不満を心で解決するための方法は、物質として、商品として流通しています。
ですから、自己啓発の肯定もまた、物質的進歩や消費拡大を肯定することになります。
そこでは「心」が透明なものとして、その物質性が忘却されています。
ここでの「心」とは、言語といいかえてもいいでしょう。
言語もまた、写真のように、透明でなく物質的なものです。
「自己啓発」を売るひとも、買うひとも、社会の一員です。
たとえ「心」に重きをおこうと、社会のなかで、貨幣という物質的なものを利用して生活するしかない。
けして「どこかの山奥にこもっている」わけでない。


だからといって、「なぜ自己啓発は宗教として断罪されるのか」という鋭い提起は、無効になるものではありません。
自分の求める物質とはちがう物質に価値をおく人間を見下すことは、間違っています。

ひとは経済的な困難にあるとき、「自己啓発」という言語的な解決によって、なんとかやりすごす。
参照先の方は、その役割が「宗教」と同じとおっしゃっているのであって、それを「断罪」しておられるのではありません。
ただ、「自己啓発」を売り、そのような裕福でない方々を食い物にしている者にたいする皮肉は感じました。
彼は「資本主義のグローバル化、金融中心化」を肯定しているのでなく、その被害者たちが「自己啓発」という商品によってさらに食い物にされていると語っているのですから。

多くの生活上の問題を際限なく「自己」の責任として処理させてしまう「自己啓発」の残酷さは、それがアメリカにおいて生まれたように、資本主義と綿密な関係にあります。
もし、「自己啓発を宗教として断罪」することへの批判が可能なら、「自己啓発」を、自身を取り巻く社会と切り離し、それとの関係を忘却しているという、まさにそのことから始めるべきかと思います。

長文失礼いたいしました。

心を知る事は

宗教を持つ事で有ると私は思うんですが?
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