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02 19
2011

書評 心理学

認知療法として読むトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』

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 この文章は11年前の1999/1/10に書かれたものです。自己啓発のルーツとも思えるほどのこの名著を宗教の名のもとに封印するのはもったいないと心理学的に読んでみました。わたしは神仏を信じる気持ちはまったくないのですが、宗教はこのように利用できるのかとあらためて学ぶことができました。

 心理学的に活用してはいかがでしょうか。認知療法というのはいかに自分を苦しめない考え方をもてるかということだと思います。

400338041Xキリストにならいて (岩波文庫)
トマス・ア ケンピス 大沢 章
岩波書店 1960-05-25

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 トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』(1472年/岩波文庫)は世界中で聖書についで最も読まれた本だそうだ。    

 なるほどキリストや神について語っていながらふつうの人たちが経験する世間や人間関係、憂悶や悲嘆からの解放の仕方や作法がのべられており、これをキリスト教信仰者のみの糧とするのはあまりにももったいない。

 これを神や信仰について語ったものだけではなく、われわれの心の世界の平安さについて語った本と捉えるのなら一般人のわれわれも多くを得ることができるだろう。

 その方法に心理療法としての認知療法をもちいたいと思う。認知療法というのは鬱や悲嘆の感情に陥れる元となるのは思考であるから、その歪んだ思考内容をもっと合理的なものに書き直せばいいという考え方であり、 この『キリストにならいて』という本もそのような読み込み方ができると思う。

▼なお認知療法はデビッド・バーンズ『いやな気分よさようなら』(星和書店)がいい。
4791102061〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法
デビッド・D.バーンズ David D. Burns
星和書店 2004-04-27

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『キリストにならいて』のいちばん根本的なメッセージは、「すべてこの世の空しいものを軽んずること」ではないかと思う。

 なぜなら「眼は見るものに満足せず、耳はきくものに満足しない」し、「この世はかりそめのもの」であるから、ゆえに「脆弱でいずれ死ぬべき人間をあまり当てにし過ぎてはならない」からである。

「太陽の下に永続し得るようなどんなものを、あなたは、どんな処にもせよ、見ることができるか。あるいは、あなたは十分満足感を味わえると思っていようが、けしてそれを獲得することはできないだろう。もしあらゆるものが現前にあるのを見たとしても、それは空しい幻影以外の何であろうか。」

「見なさい、この世で富み栄えるものも、たちまち煙のように消え失せよう、そして過去の歓喜の思い出は何一つ残らないだろう」、それゆえに「すべて、はかない一時のものを捨て、永遠なものを求めなさい」

 この世のどんなものもはかなく、かりそめに過ぎてゆく。時は一瞬もとどまることもなく、感情は移ろい変わりやすく、栄えはいつも一時のものである。だけどほとんどの人間はこれらの歓喜や慰めに盲目的にひき寄せられ、そして必ず失われてしまうものを追い求めたがゆえの悲しみに到り着く。

「この世を空しいものと軽んずる」というのはすべて消滅する運命にあるはかない世に喜びや満足を求め、悲しまないための合理的な認識方法といえる。

 ただ「それゆえ天上のものを求めなさい」、「神に身を委ねなさい」というのは、心理的な認知療法の範囲内で解釈できるのかはちょっとむづかしいところだ。これは地上の苦しみを絶つための――たとえば苦悶や悲嘆に心を満たされないための、即時的な思考の消去法と考えてよいのだろうか。

 苦しみからすぐ天上のことを想えば、心はなにものにも思い煩わされることはない。神の国というのは現実の苦悩をそらすための方法なのだろうか。



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 ケンピスのこの書の頼もしいところは人間関係の煩わしさを消去してくれることである。

「世の称賛も、非難をも、気にかけない人は、大いなる心の平安をもつものである」

「世の称賛を博したからといって、それでいっそう聖人になるわけではなく、悪口されたからといって、それでいっそうつまらぬものになるわけでもない。あるがままのあなたがあなたであって、人がどういおうと、神の見たもうところ以上に出ることはできない」

「私の心はキリストにおいて堅められて、そこに礎をおくのなら、けしてやすやすとは世間に対する恐れに悩まされもせず、敵意をもった人のことばに動揺もしないでしょう」

「人の言葉の風向きごとに、いつもあちこちと吹き回されていないで、何もかも内面的にも外面的な事物についても、あなたが心にお望みなさいますそのとおりになりますようと願うことは何とよい、心の和らぎを保つ道でしょうか、世間的な見えを避け、上辺に人の称賛を博するようなものを求めず、生の向上を助け信仰への熱心さをもたらすことだけを一所懸命に追い求めるのは」

「お前の心のやすらぎを、人々の口(言説)においてはいけない」

「もしお前が心の平安を、自分の感情やその人とつきあってゆくことのために、誰かに依らせ、その人の手に委ねるなら、お前は心の落ち着きを失い、煩いに巻き込まれよう。だが、もし常に生命を保って滅びることのない真理に頼れば、友だちが遠ざかろうと死のうと、そのため悲嘆に陥らないですもう」

 現代人を悩ませる最大のものはほとんど人間関係といっていいだろう。世の人の称賛も非難も気にかけるなという言葉は、悩みに煩わされがちなわれわれに、ふっと我に返らさせてくれる。人間関係の悩みに没頭しなくても、手放せばいいんだ、ということを思い出させてくれる。

 この世より天上に想いをいたせということばは、じつはわれわれはこの世の栄光や称賛を求めるがゆえに世人に苦しめさいなまされるという側面をも語っている。気に入られようとするから他人が恐ろしい、よい関係をつくろうとするから壊れるのが恐い、という逆説をもっており、他人を必要以上に恐れる現代人は、逆に他人との関係に必要以上の理想や完璧を求め過ぎているのではないかということがうかがえる。

 すぐ他人の言葉や行動に傷つくのは、他人のやさしさやあたたかさを過剰に追い求め過ぎているのではないだろうか。

 認知療法ならこれをどう合理的な思考に書き替えるのだろうか。ケンピスは人の批判も非難も自分を別の人間に変えるわけではないと書き替える。また心の安らぎを他人の言説におくなと諭している。もっともだ、他人の気まぐれやいいかげんな気分に振り回されるのはたまらない。

「他人の好悪に自分の価値を見出すな」というのが現代人のための解毒剤になるだろうか。他人の意見や気分なんか、動物園の落ち着きのないサルやヒヒのようなものだ。ヒトがサルやヒヒに振り回されるのは愚かなことだ。



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 この書のもっとも慰められるところは苦難や悲嘆についての心がまえだ。おおよそ三つの対処法が説かれている。

「なぜあなたは思い乱れているのか、望み願うとおりに事が運ばなかったからといって。自分の思い通りに万事がなるというのは、誰のことなのだ。この世では、何かの難儀や苦悩をもたない人というのは一人もいない、よし帝王であろうと、法王だろうと」

「苦情をいうのは止めなさい、私の受けた苦難や、他の聖者たちの受難を考えてみるがいい。お前はまだこれまでに血を流すまでに抵抗したことはないのだ。かように多くの苦難を受け、かくも勇敢に誘惑を凌ぎ、かくも甚だしい不幸に堪え、かくも多様な試練や苦悩にあって来た人たちに比べるとき、お前が蒙る苦しみは些細なものに過ぎない。それゆえ、お前は、自分のごくわずかな苦しみをいっそう楽に忍べるよう、他の人たちの、ずっと酷い苦しみを心に思いみるのがよろしい」

「勇敢にたたかい、辛抱づよく堪えるがいい。労苦しないでは、安息に到達することができず、たたかいがなければ、勝利に至ることはできないのだから」

 上の言葉は、望みが叶わない状態が当たり前のことであり、もし苦悩の最中にあれば、もっと不幸な人と自分を比べてみる、苦悩こそがやすらぎと天上の平安にいたる道だということなど、認識の逆転がのべられている。

 これは苦悩がもたらす視野の偏狭さを矯正させる思考の書き替えである。望みが叶わない面を見るのではなく、世の中のすべての人が思い通りになるわけがないという側面を思い出させ、また自分より一段と不幸な人に思い致せば、自分の不幸はちっぽけに見えるということ、忍苦はより大きなる安らぎへ至る道だという、不幸のヒロインにひたっている人には思いもつかない合理的な思考方法である。

 逆境や不幸からの逸らし方がここに呈示されているわけだ。人はそれらの不遇にあると見事にそれにハマってしまう。近視眼的になって抜け出せない人には他の不幸な人を見たり、大きな展望をもったりすることが必要なようである。不幸や逆境には、発想の逆転が必要ということである。自分の憂悶や苦悶から離れること――この知恵にはほんと慰められる。



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 さいごに自己否定についてとりあげるが、これはむずかしい。現代人は他人や世間に流されない確固とした自我を理想としてきた。それゆえに自己を捨て去り、へりくだり、服従しろというケンピスの言葉には大きな抵抗感や不快感をもつかもしれない。しかしそこに心の平安や安らぎが秘められているとするのなら学ぶべきものがあるだろう。

「人が自分自身を、何のわきまえもなく、やたらに愛するという悪徳からして、根本から克服されねばならないほとんどすべての悪が、出てくるのだ。この害悪さえ完全に打ち克たれ、抑えつけられたら、たちどころに、大きな平安と穏やかさがもたらされよう」

「自分を愛することは、この世のほかのどんな物事よりも、身を害うものだ、ということをわきまえなさい。お前がそれに対してもつ愛や執着のいかんにつれて、あらゆるものは、多かれ少なかれ、お前を虜にするのだ」

「もしもお前が自分の都合を考え、自分だけの気に入るものをもっと手に入れようとして、これやあれやを求めたり、ここやかしこにいたいと望むとしたらば、お前は決して平静な心をたもつことも、また心配から自由であることもできないだろう。なぜかというと、あらゆる物事には何かの欠陥が必ず見出されようし、どんな場所にも、お前の意に逆らう人がいるものだから」

「お前は、自分というものをすっかり否定するのでなければ、完全な自由をえることはできない」

「すべてを捨て去れ、そしたらお前はすべてを見つけ出せよう、欲情をすてろ、そしたらお前は平安を見つけ出せよう」

「主は空いている容器を見つけのおり、ご自分の祝福をその中へお容れになる」

 仏教にしろヒンドゥー教にしろ、多くの宗教はやはり自己否定を説いている。それに対して近代的自我だけが自我をやみくもに追い求める。ヨーロッパ中世教会の不平等や圧制という歴史的経緯があったりなんかしてだろうが、自己否定がいくら安らぎの境地を運んでくるからといって、この点には警戒が必要だろう。

 自己を捨てれば、平安が訪れるというのは論理的に適うのかはわたしにはよくわからない。ただ自己を守り、敵を防ぎ、自己の利益をはかったりすることは、逆説的に惨劇や苦悩をもたらすというのも事実のようである。

 貪欲で利己的な人は他人と衝突するのは当然のことだし、またむやみに自己を守り、自己の被害だけを防ごうとする者は逆説的に自己を傷つけ、守れない。自己は損傷し、被害を蒙り、老病死は防ぎようがないし、自己を守ろうとする認識は、かならず物事のありようから抵抗や衝突を受けざるを得ないし、ましてや、自己と環境、他人や世界をまっぷたつに分断してしまうと、もし世界に自分の心しかないとする唯識の立場からすると、自己を惨憺な結果にしか陥れなくなってしまうだろう。

 世界というのは自分の認識そのものであるわけだから、そのなかの自己の充実のみを計るものはかならず自己の損害を受ける。おおくの宗教で言う自己否定とはそのようなことをいっているのだろうか。このことの論理的証明についてはわたしにはよくわからないので、また後に譲りたいと思う。

 願わくばあなたの心に平安が訪れるように――。

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