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01 22
2011

社会批評

集団嫌い・学びの自立・心理学に求めるもの


集団嫌い

集団をもりあげたい人と、集団をもりあげたくない人の闘争や抗争はずっとつづくのだろうな。集団をもりあげたい人は集団との一体化に満足や高揚をおぼえるし、集団から離れたい人は集団との一体化に嫌悪や不快感をいだく。どのあたりのポジションにつけばいいのか。あるいは理解しあえるのだろうか。

社会学というのは基本的に集団を嫌悪してきた学問が多いと思う。オルテガにタルドにニーチェにリースマン、フロム、ミル。オルテガは貴族の精神がなくなることに。フロムはファシズムの危機に。ニーチェは畜群の勝利に。タルドは群集の知性の崩壊に。自我や自立を奪われる恐れに怒ってきた。

国家や企業、学校はみずからの都合により集団管理を好み、必要とする。それによって自我をなくし、尊厳を傷つけられたと思う人が集団を嫌悪し、抗争する。上の者は集団に従順な好都合な者を欲し、それに反発する、対立する者が集団をひきさき、離れようとする。

集団の熱狂に埋没できる人と、それから距離をおき、冷めていたい人と。集団の熱狂に埋没すると理性や知性が奪われると恐れている人と。前者を動物的であるとするのなら、後者は近代的な人間であろうとした。集団というのは近代の自我に達していないのである。


学びの自立

教えないで能動性を助けるのが大切だが、子供が学校の科目に興味をもつとは思いにくい。 / 教えないという教育法 - 教えることが上手な人の5つの教え方 - 読んだものまとめブログ

子どもの学びの能動性を育てるには子どもの好きなもの、遊びや趣味、テレビについての学問分析をさせれば伸びると思う。だけど学校の科目と受験科目は決まっているんだよな。学びの自立が目的なら子供が好きな対象を選ぶべきなんだが。子供が興味ない科目を押しつけるからさらに興味をなくす。

学びの自立が目的なのか、過去の知識の伝授が目的なのか。学びの自立が目的なら明らかに教える科目をまちがっている。子どもには子どもの好きな世界がある。学びの自立なんか目的にしていないのだろうな。

大人になって自分の好きなことを学問をしてもいいと知ってはじめて学問の楽しさに気づいたわたしです。

岡田斗司夫がマンガやアニメを学問にしたように子供が好きなものを学問にすることもできるのだ。教育はそれに追いつかないでひと昔まえの教養を教えて子どもにそっぽを向かれる。

教育は生徒の学びの自立を破壊させるために存在している。教師は依存させて、偉そうにすることに自分の価値と意味を求めてしまうからだ。それは人のサガだよな。必要とされないと捨てられるより、もっと教えてと人に依存させたほうが自分の価値が上がると思う。自分を否定されたくないともっと教える。



全日本仲良し教

人と仲良くなったり、つながりたいと思っている人と、人と仲良くなりたくない、ひとりで好きなようにしていたいという人の拮抗はたえずあらゆる場所で噴出する。場所やその場の雰囲気はどうありたいかという考えの衝突はけっこうおこっているものである。

学校や職場はみんなが仲良く、楽しくつながれという規律を押しつけるところ。それを楽しく演じて、疑問なく踊ることができるものが集団のなかで高成績をえる。「ぼくはきみたちといっしょにいれてとても楽しい、うれしい」という気もちの表明をしなければならない。管理者はそのメッセージを待っている

だれもが楽しく人とつながりたいとは限らない。楽しく人とつながりたい人のむじゃきな暴力性、強制力に気づかないおめでたい人。若いときにはわたしにもあったな。だれとでも仲良くしたいのに人はどうしてそっぽを向くのかと。仲良くすること自体が暴力をふくんでいることに気づかなかった。

「全日本仲良し教」を学校で押しつけられて、むじゃきな楽しい踊りを布教する。仲良しや楽しいことの暴力性。

韓国では人が亡くなったとき、大声で泣き叫ぶ慣例があるそうだが、日本ではそれを強制されたら違和感があるだろう。仲良し教を布教する人は善であることに疑問をいだかない。

善の暴力性に気づいた人たち、ニーチェ、ジョン・スチュワート・ミル、中島義道。学校で不登校がおこってしまうのは善の暴力性を言語化できないことにあるのかもしれない。子どもはその雰囲気を言語化できずに反発する。

よいこと、すばらしいこと、善的なものにたいする無条件な信頼や礼賛が人を追いつめる。むじゃきさが罪なこともある。仲良し教にはその無知がある。


心理学に求めるもの

ドラマ「LADY」はプロファイルものにあるような超人幻想がなくて堅実に見えるドラマであったと思う。プロファイルとか心理学とのドラマとなるとなぜか天才や透視能力があるかにようなあつかいになって底が割れてしまう。ドラマをつくる人はじつは心理学なんか知らないのだとバレるだけ。

心理学をやれば人の心がすべて読めるかのようなおバカなドラマをつくるのはドラマの脚本家だけだろう。物語を好きな脚本家は心理学とか学問書なんか読まないのだろう。人の心が読めるという超人幻想をなぜかこの界隈の人たちは広め、心理学に憧れる人たちや勘違いする人を生み出したいようだ。

どうして心理学の超人幻想というものは生み出されるのだろう。

心理学なんかに憧れても永久に人の心なんか読めないし、だからこそ謎を追究する楽しみはつづくし、学問は永久に終わらず、完成なんかすることはないのだ。心理学は完成し、すべての謎を解いた学問だと心理学系のドラマは喧伝したいようだ。なぜに。

右肩上がりやランクアップ消費の時代が終わってしまうと、目的なき閉塞感につつまれる。そういうときにわたしはどこにいきたいのか、なにをしたいのかという茫漠たる不足が生れ、その蜘蛛の糸はもしかして心理学だわと思うのだろう。外側の目的を失うととりあえず内面になにかを探そうとする。

外側の遠い目的がなくなるととりあえず内側を探る。心理学を学びたいという人は自分はなにを知りたいのか知っているのだろうか。プロファイルで憧れる人は殺人犯や異常人格の心理を目的にするのか。なぜ常人ではないのか。異常人格になにを見るのか。わたしの内なる異常性を排斥したいのか。

プロファイルや心理学のブームというのは自分の内なる異常性の発見をめざしているのかもしれない。規範や規律からもれている自分はいないか、外れている自分はいないのかという不安なのかもしれない。じつは心理学の興味とは自分がちゃんと列にそろっているかという不安叩きではないのか。

規範や規律から離れる不安を心理学に探るのはおそらく目的なき時代に規範や規律がゆるんでいる、目的のメルトダウンによっておこっているのかもしれない。行列をつくるロープや道しるべがなくなったので、わが内なる異常性を探ることによって規律のロープを探しているのだ。逸脱圏外のロープ。

結論。プロファイル・ブームや心理学幻想というのはわが内なる異常性を探ることによって行列の整列をめざしているのだろう。行列から外れている自分の異常性はないかということだ。人が心理学に求めるのは規範の逸脱監視なのだろう。

ファッションの流行で横並びしていた基準がなくなると、心理学によって横並びの基準を探すのだろう。あなたが探しているのは行列や流行の枠内に収まること。わたしはちゃんと行列に並んでいるかということ。心の中もちゃんと行列できているかとチェック機能をコピーしたいのだ。

「わたしは道を外れているのだわ」という病のヒロイズム、心理的異常による個性幻想、または自分の特別性に足をからませる人がメンヘラ系の人なんだろう。異常性のヒロイズムにハマる人にはナルシズム、不幸なる自分の特別性の満足を感じてしまう。

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Comment

最近こちらのブログを知り、興味深く読ませていただいています。
心理学についての、特にマスメディアにおける、まるで読心術であるかのような扱われ方、確かに異様なものを感じますね。心理学はまだ若い学問であり、まず疑うことからはじめるくらいがちょうどいいでしょう。そして、なんであれ無批判に受け入れてしまう態度ほど、心理学の理解から遠いことはないと思います。
ある心理学者は、個々のケースにおいてどんなア・プリオリにもしたがうな、といいました。この言葉が理解されるようになれば、集団と個の対立も、教育の越権行為も、正義という名の暴力の問題も、解消されるような気はします。

人が心理学に興味をもつのは列から離れた異常性がみずからの内にないかと探りたいからではないかと思っています。

人と違わないことの監視が内面の監視にまで向かっているのではないかと思います。

いっぽうでは人はほかの人と同じでありたくない、特別でありたいとも願います。もし人と違った異常性をみずからに見つけると自己の特別性や天才性をくすぐられるかもしれません。

プロファイルもののドラマなどは病弱なヒロイズムの特別性を満足させるから人気なのかもしれませんね。
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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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