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01 09
2011

社会批評

他人まかせ・役割の終わり・りっぱな人間


他人まかせな時代の危機

日本の学校って学者を育てる方向に目を向けていて、商売人をつくる方向に向いていないから、学生は社会に出たら苦労するのだよな。官僚組織に合致するような学者に育てられて商才がなくて路頭に迷う。商売でメシを食わなければならないのに学者志向の訓練を受ける。

学者の訓練で世間や企業が権威を認めてくれる時代は終わったのではないか。商売人のベクトルに向けるほうが大事なのではないか。学問教養は大事だが、もう世間の人はほとんど学問教養をスルーしている。

使えない学問教養より、商才とか商魂のほうを教えてほしかった。商売で食ってゆくんだという心構えを子どものときに植えつけてほしかった。学者のような勉強で将来メシが食えるわけではない。

むかし自営業者の子どもは遊んでいてろくに勉強しなかったそうだが、いまはサラリーマンの子どもは遊んでいて勉強をしない。自営業者の子どものほうが商売人の背中を見て育つ有利さはあるのではないか。

学歴のハクはまだ世間や大企業で効くのかもしれないが、自分でなにかをつくれたり、売ったり稼いだりできないと生きてゆけない世界がどんどん広がっているのではないか。会社や国が与えてくれる仕事や勉強まかせではどんどん干あがってゆく。

学校や官僚はどんどん受け身の人間をつくりだしたことが失われた20年の根底の精神にあるのかもしれない。自分で能動的になにかをつくりだそうとしない。大量生産の工業社会ではキャッチアップでうまくいくしくみかもしれないが、市場が成熟するとたちまち大勢の将棋倒しパターンになる。

工業社会の学者と依存のベクトルがあらたな創造のベクトルをまったく生み出せない方向に作用している。大量生産ではそれは成功したパターンなのだから急に方向を変えられない。問題は工業社会の成功パターンで教育されて社会に出てゆく若者だ。仕事をもらう依存のパターンで教育されたから仕事がない。

教育と大量生産の時代でいちばん失ったのは商売や起業の精神だろう。自分でつくらず、すべて他人任せ。仕事がない時にいちばん苦しい背に立たされるし、就活でもあなたはなにができますかと問われて絶句する。教育と大量生産の他人任せの仕事によって、社会で必要な中核の目的が消失させられた。

ニートやひきこもりは他人任せ教育と職業の犠牲者だろう。もっともニートには官僚組織に入りたくないという抵抗心も認めるが。


自分の役割をなくすことが仕事

親を捨てるような子どもに育てることがよい親のあり方だと思うのだけど、これは過激すぎるというか、冷酷すぎるのかな。やっぱり親や世間は許さないのかな。親を必要としない自立した子どもに育てることが親の役割だと思うんだけどな。子に必要とされなくなった親の自負というのはないのかな。

技術者は高機能や多機能ばかりめざすが、消費者がほしいのはかんたんで単純なものだろう。多機能なんてどの道つかわない。機能を高めないと売れない、技術者の価値がないというのだろうが、消費者にはよけいなお世話。医者も教師も、親も自分の役目をなくすのが仕事なのだが、依存させる誘惑は強い。

依存させれば自分の価値や役割が上がるという誘惑に落ち込む人もおおいのだろうな。親に教師に医者に、技術者。自立や能動をそぎ落として、依存させれば自分の価値と職業は安泰だという誘惑に負ける人も多いのだろうな。これらの職業は手放して、ひとり立ちさせることが仕事なのに。

自分が必要とされないようになることが自分の仕事というのは自覚がキツイだろうな。親や教師や医者はその覚悟が必要だ。わたしはいつか必要とされなくなるために働いていると知らなければならない。


りっぱな人間になることの陥穽

NHK「Qわたしの思考探究」よかった。上田紀行に鷲田清一に、引用される人物がロナルド・レインとレヴィナス。期待できる番組だ。こんかいの問いは「わたしとは何か」。これは哲学というより心理学的課題だったかもしれない。わたしとは他者に必要とされるもの。わたしはこの問いを深く考えられない

モデルの富永愛は身長が高くて小学校で宇宙人といっていじめられたそう。小学校にありがちなこと。人と違いすぎるといじめられる。画一化と順応性のたたき合いがなされるのが小学校。人と違う自分は存在してはならないと思い込まされる。そういうときに「自分とはなにか」と問うことになる。

「わたしとはなにか」。わたしはそういう問いをおそらく発しない。わたしという単体を考えるより、たえず環境やかかわりが主体であって、わたしという単位で自分を捉えていない。わたしにはわたしという単位で自分を捉えていない。だから自分ってなにとは問えない。すでにわたしは社会や環境だ。

「自分とはなにか」と問うとき、たぶん自分の価値のなさに悩んでいるときだと思う。なにかりっぱな人間、すぐれた人間、うらやましがれる人間にならなければと思う。欠落を補おうとする。クリシュナムルティ流にいうと、空しい砂上の楼閣をうちたてる。りっぱな人間になろうとする。ありのままの否定。

りっぱな人間、人から愛される人間にならなければ存在している意味がないと思うのはまちがいだと思う。わたしはただ「ある」だけで満足している、充足している状態がいちばんだと思う。存在しているだけの肯定。価値や愛を他者や社会に求めると無限の承認欲の泥沼にはまる。

他者に必要とされたり、役立たないと価値がないと思う思考は役にたたない人間、必要とされない人間の価値を全否定する思考にみちびく。ここにアイデンディティをおく自分に幸せと安穏がおとずれるはずがない。存在していることに価値がある。この世界が感じられるのはわたしが存在しているからだ。

他者の承認というのは頭の中のわたしの満足であり、想像上の喜び。東洋宗教ではその自我の滅却を必死にめざしてきたのだが、西洋近代ではどうも自我の構築や承認に価値をおくことで資本主義や政治社会を築いてきて、勝ってきた経緯があるのだろう。東洋のように賢明であろうとすると負けた皮肉。

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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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