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01 02
2011

社会批評

進歩史観・雇用の不満・知識の隠蔽と力



小学生がオトナのツラをかぶっている

社会の機構とか制度とかどんなにりっぱなものであっても、小学校の友だちのようなやつらがやみくもにわからないながらもつくっているものだという感覚が年をとって感じられてきた。

父も母もひとりの子どもだったと思えるときがくる。子どもが親のツラや役割をかぶっていたんだ、演じていたんだとわかるときがくる。


女性の評価眼

ケバイ子は意外に従順でつきあいやすい、地味めな子はつき合いにくいというある人の意見。

ケバい女の子は若者の制服を着ており、他者志向ということか。ヤンキーギャルはどちらかというと保守的な妻の生き方をしそうだ。いっぽう、地味目の子は内に秘めたものや他人との疎通をシカトしているということか。まあ、御しやすさの基準をもつのはどうかと。

よくしゃべる女子は支配欲や他者の評価眼、そして場所の占有欲というものをもつから恐ろしいのだ。しゃべることによってその世界の支配、評価の基準をもつものだ。子どものとき、おばちゃんの井戸端会議がダイキライで、脅威だった。他人をこそこそ陰口を叩くような集まり。オバタリアンを憎んだ。


俳優と文化のルサンチマン

歌手というのは偏った人やマニアックな人が多い。俳優はそういう偏りが感じられないというか、歌手のような偏向性を感じられないふつう性をまとっているように思われる。表舞台にこんなに偏っていいのかという人が歌手として出てきそう。そりゃ、自分でものをつくる人はそうとう思いつめた変人だよな。

俳優ってカッコよさとか美貌だけで中身は評価されないでいいのだろうか。演技だけにマニアックや情念を忍び込ませられるだけでいいのか。水嶋ヒロが小説を書いてバッシングされたのは俳優は頭カラッポという評価があるからだろう。絢香に触発されてオレもものをつくるんだと思ったが世間が許さない。

美貌の人はそれだけでまわりがちやほやしてくれるのだから、上に行こう、認められようという強いハングリー精神は芽生えないかもしれない。恵まれない人が文化的にやってやるぞというルサンチマンを抱く。金持ちになりたいルサンチマンも非モテがパワーの源かもしれない。

タレントが雑誌で生き方とか考え方を吐露してティーンエイジャーが真似せよというカルチャーがあるが、タレントって文化や生き方をひっぱってよい存在なのだろうか。世間はカッコよくてもそれだけと思っていないか。ヤングはカッコよさだけに憧れを抱きやすい年代なんだよな。


レイラインの楽しみ方

レイラインの楽しさはなんといっても地元の神社の方角を楽しめること。神社はどちらを向いていて、どの山岳や聖点に向かっているのかの調査を楽しめること。それは冬至や夏至、秋分の方角か。自分で探って知る楽しみが味わえる。古代の聖なるものの仕掛けを探る楽しみ。

地元の神社はなぜこの場所に建てられたのか。方角はどうしてこちらを向いているのか。その謎の鍵が太陽の出日没方向にある可能性がある。夏至や冬至、春分の太陽の出没方向によって決められたかもしれない。その先に聖なる山と呼ばれた山岳はないか。レイラインは古代の聖なるものの計画を垣間見せる。

まあ、宮元建次の「神社の系譜」(光文社新書)によってレイラインの楽しさを教えてもらった。ちょうど山登りをして田舎の暮らしとか古代史とか興味をもちはじめたころにハマった。山ガールとかパワースポットが好きな人はご一興かと。


2010年ドラマベスト2

個人的な2010年のベストドラマ。1位は「八日目の蝉」。2位は「10年先も君に恋して」。あとはいいのが思い出せない。「八日目の蝉」は「Mother」よりだんぜんよかったと思うのだが人気は逆のよう。「八日目」のほうが喪失感が強かったから好き。「10年先」は人を信じられるかがテーマ。

「八日目の蝉」は誘拐犯なのに感情移入できたふしぎな物語。なぜなのか。母親はいつかは捨てられる報われぬ愛をそそぐ。母親の普遍性をつかんだからではないかと思う。期限付きの報われぬ愛をそそぐのが母親の愛。いつかは子に捨てられるが愛情を一方的にそそぐのが母親。すべての母親は束の間の誘拐犯


無邪気な進歩史観礼賛

「JIN」は幕末と坂本龍馬と緒方洪庵と吉原を出したかった物語という感じだな。それと江戸時代の現代の先進の医療を知っているという優越感と進歩史観だな。過去より優れている主人公は時代の優越感を感じさせる。人を助けるというすばらしい価値観を称揚しているから感動するが、進歩史観。

淑女と娼婦という女性に求める紋切り型のテーマもあつかっているな。

進歩史観というのは現代のほうが優れている、便利だ、文明の機器に囲まれていると称揚するのだが、乗っている船を自慢してもハダカの自分や人間はなにひとつ変わらない、人間はほんとに愚かさから脱出できたかは疑問なんだな。時代やお国自慢は自分ではないんだな。

進歩史観というのはお国自慢のように自分はなにひとつ貢献していなくても自分のことのように自慢できる違和感があるが、それと似ているんだな。エジソンやフォードの仕事には関わっていないのに自分がなしたかのように自慢できる違和感。船に乗っているけどほとんど自分がつくったものではない。

文明がすすんで進歩や救済は多くおこなわれるようになったのはたしかだが、進歩史観のおごりだけは気に食わない。過去やむかしの人が劣っていて、教え諭さなければならないという放漫さが気に入らない。

過去やむかしの人をバカにする思考法って新製品を買うためのイデオロギーになるし、親や祖先の尊敬やかつて生きてきた人たちの賢明さや苦労も蔑視や軽視することにもつながると思うんだな。過去を焼き畑農業しているとかえるのように新製品に飛びついて命の連鎖を尊重しない人生観を生む。

進歩史観というのは西欧の文明の使命感を生んだもとの思考だし。植民地支配の正当化は自分たちの文明が優れているゆえに教え、救わなければならないというおごりが生み出したものだ。

進歩史観とか帝国意識を批判したらけっこう反発を喰らうんだな。マンガとか映画、ドラマには進歩史観の高揚感、優越感がけっこう入れられていることが多いのだが、この意識に批判を加えられることは気に食わないらしい。文明の先進観に人の自我がどれだけ支えられているかということか。

日本は西洋の帝国意識をとりいれることによって侵略やインディアンになる運命をまぬがれたのだから、帝国意識や進歩史観の称揚を無意識にもっているよな。勝つこと、偉くなることの放漫さ、侮蔑意識というものに人は目を向けないで隠したいよな。勝つこと、偉くなることの残酷性に目をふさぎたい。

人に勝つことってものすごく残酷だと思うんだけど、それを反省することは自虐的すぎるのだろうか。善人になりたい人は勝てない、負ける。勝つことの残酷性、放漫さを知っているからだ。勝者を称揚する社会は残虐性をもまたもっている。自虐的な見かたすぎるが。

西洋近代の帝国意識が反省される社会になってほしくも思うが、そうなるとアジア的停滞とか途上国の貧困におちこむのだろうな。人間のゆずれない生存条件なのか。

マンガや映画にはけっこう無邪気な進歩史観で優越感を感じるものが多い。この優越感に無邪気に乗っかる人が多い。もうひとつの、見えにくいナショナリズムかもしれない。

原始人や未開民族をバカにすることによって文明人のプライドとほこりは保たれている。進歩史観は動物のような原始的は暮らしの表象によって支えられている。


世間の品評会

正月にファミリーとか親戚が集まってしまうと世間のまなざしで評価される機会がふえるからいやなんだろうな。ふだんは世間のまなざしが届かない狭い世界に生きることができるが、雑多な環境の人間が集まることによって世間の基準が介入する。同窓会もそうだろう。世間の基準を捨てよう。肯定しよう。

世間の品評会から孤絶していよう。品評会を気にして競争に駆り立てられる愚かな世界から遠のいていよう。他者にたいしても同じことだ。


正月は四月がふさわしい

こんな寒いときの正月なんてうれしくない。わたしの正月は四月にしよう。願わくば桜の咲く如月のころ。都合よく西行の亡くなった弘川寺は近くにあるし。正月は四月までおあずけ。

一年のはじまりは春がふさわしい。あたたかくなり水がやわらかくなり、鳥がさえずり花が咲く季節こそが新春にふさわしい。そういえば子どものときに年賀状に書く立春に違和感を感じたな。おシャカさんの誕生日の4月8日が正月だ。それをすればアジア的停滞になるというのか。

どうしてヨーロッパの人はこの季節を正月にしたのか。ヨーロッパはドカ雪でさぞかし寒かろうに。冬の底がそんなに愛おしいのか。

べつに1月1日なんて太陽のまわりをぐるぐる回っているだけだから、どこにもってこようと決まりがあるわけがないし、区切ることもできない円形の無限循環。太陽信仰がないこんにちのわれわれが冬に正月を迎える必要はない。


雇用の不満や変化はむかしと同じことをいっている

20歳ほどの学生が不満に思う雇用とか会社のことって、20年前も、下手したら40年前も同じことをいっていたんだよな。終身雇用が崩れる、大手志向とか、個性とか何十年も前にいわれてきて、何も変わらずに同じ不満や変化がいわれる。雇用や仕事にいわれたことの銘記と参照のしくみがないだけ。

20年前とか40年前の雇用や仕事の不満とか変化がどういわれていたかという本や記録をいまの人はほとんど参考にする手段をもたない。そのころの本や記録を読むといまいっている不満となんら変わらない。たとえば加藤秀俊の「生きがいの周辺」なんて本はたぶんいまの人が読んでも違和感がないだろう。

雑誌とかテレビばかり見ているとむかしの情報が入ってこないで、むかしの若者も自分と同じ不満や感じ方をもっていたという気づきや情報が入ってこない。じつは若者が感じる不満や違和感て古今東西変わらないのかもしれない。


知識を隠すこと、力を得ること

知識というのは秘伝とか家伝とかほかに教えられないものだった。中世のギルドなんかでも新規参入者を防ぐ意味で技能はつたえられなかった。免許制もじつは新規参入者を防ぐ障壁の役割をはたす。仕事も見ておぼえて知識やマニュアルとして伝えてはならない職種もある。知識を教えれば職を失う危険がある

知識を教えるということはたえず自分の職を失う危険と隣りあわせだ。だから知識は閉ざされ、教えられないことが多い。いまはお金で知識が閉ざされる。ぎゃくに知識をマニュアル化して多くの初心者をプロに仕立て上げるという方法もある。宗教なんかは知識が秘伝化され、大衆が知らされるのはほんの触り

知識というのはかように閉ざされた歴史があるのに、無料で手に入る知識ははたして役にたつものだろうか。必要かつ有益なものはあいかわらず流出禁止が多いのではないか。知識は権力をもたらし、既得権益を守るものだ。

印刷技術によって秘伝の知識はかんたんに人につたわることになった。言葉でつたえる知識がそうでない人との権力格差をもたらすとしたら、印刷技術は伝聞知識の既得権力をうばった。宗教なんかは伝聞知識での既得権益を守るものだろう。人は知識の出し惜しみで権力を維持し、そして進歩の足をひっぱる。

知識は活用され、応用されてはじめて役にたつものだが、知識は知識のための探究、暗記におちいりやすい。教養や学識のほこりや優越感だけでプールされて死蔵する。活用や実践に用いられたとき、知識は役に立つものになり、これまでもたらされなかった進歩やイノベーションがおこる。

しかし活用や実践される知識は低く評価され、象牙の塔の知識が高く評価されるのはなぜだろうか。ビジネス・ハウトウは低く見積もられ、学問的知識は高く評価される。人に益をもたらすのは実践的知識ではないのか。なぜだろう。

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Comment

とても魅力的な記事でした。
また遊びにきます。
ありがとうございます。
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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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