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12 04
2010

社会批評

数の勢力ゲーム・人格の向上・個人と会社・大卒と仕事

 この数日のめぼしいツイートをまとめました。ツイッターはリアルタイムでないと出会わない言葉だから、ブログでまとめることはOKですよね。


数の勢力ゲームとなわばり行動

数と交流の勢力はその場所のなわばり行動。人はひとつの場所に大勢でおしこめられると、交流によりなわばりの強さをつくろうとする。交流とは場所の占有。交流から外されれば、居場所をうしなう。空気読めとはその場所の権力になびけということ。

わたしが会話の輪にあとから入るのがいやなのは数の勢力を増すことと、それで力を得ようとする戦略がきらいだからだろう。数のパワーゲームに加算したくない。迎合したくない。かれらの権力に。そして無自覚なあなたの権力拡大に。かれらはたんに自分が社交好きだとか人好きだとかだけ思っている。

数の権力拡大を避けるのではなくて、数の権力ゲームでパワーをつけるべきなのだ。しかしわたしは数の権力ゲームがきらいだ。自覚しているから避ける。排除したり、権力増大の意図や結果がきらいなのだ。そのパワーゲームで勝者にならなければならないのか。

わたしは人といっしょにいることの退屈感、そらぞらしさ、間や時間をもたせることの窮屈感がたまならなくいやだ。こんな居心地の悪い拘束感に縛られるより、ひとりのほうがいいと思う。作為や演技、創造することの空々しさにうんざりしてしまう。儀礼や形式に縛られる。でも避けると数のゲームで排除。

場所と数のなわばり行動を究明したのはゴッフマンとデズモンド・モリスくらいがやっているのか。人のつながりによって人はなわばり宣言をおこなう。電車では数によるなわばり行動がきらわれるから、人はみんな黙って他人のふりをして、なわばりのパワーゲームを抑制するのだ。

電車でひとつの団体に占有される中をひとりだけで入ってしまうと、居心地の悪さやいたたまれなさを感じるだろう。ほかの人の陣地にまちがって入ってしまった気分。この場合は自分は団体の外部という線引きができる。もし自分が団体のひとりなら、はしゃいで、しゃべって、という場の空気に押される。


集まりの構造―新しい日常行動論を求めて (ゴッフマンの社会学 4)儀礼としての相互行為―対面行動の社会学 (叢書・ウニベルシタス)出会い―相互行為の社会学 (ゴッフマンの社会学 2)マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)テリトリー・ゲーム―職場の縄張り意識を探る行動科学 (トッパンのビジネス経営書シリーズ)


哲学の人格者イメージ

哲学って人格的にりっぱになるとか、向上するための学問というイメージが一般人にあると思うが、人格の向上をめざした西洋哲学ってひとつもないぞ。プラトンも人格の向上をめざしていない。ギリシャ哲学にちょっとあるか。この、やっていることとイメージの違いはなんだろう。

デカルトもカントもヘーゲルも人格の向上などひとつもいってないぞ。ニーチェとかショーペンハウアーを読むと人格が屈折するか、ニーチェみたいに大衆罵倒の精神が身につくだけだ。医者とか教師、政治家に清廉潔白な人格者をもとめる聖職者の役割があるのか。

人格の向上をいったのは宗教だろう。キリスト教も仏教もそういうイメージがある。でも仏教の中核は認識論とか世界論とか言語哲学かもしれない。まわりの一般の人に話すことになると人格陶冶の話が多くなるのだろうな。

いま人格陶冶の話をいっているのは自己啓発とか精神世界だけかもしれない。哲学も学問もそんなことめざさない。学問は人格がすぐれた人を生み出すよりか、偏った、身勝手な人を生み出すのじゃないか。社会的な立場、役割から期待されるだけであって、やっていることは人格の向上でまるでない。

けっきょく、人格の向上をめざす、めざさざるをえないのは教師とか医者とかの聖職者の役割をせおった人たちなんだろう。職業的もしくは社会的な立場上そういう役割をせおいこまされるだけかもしれないな。教師も医師も人格の向上をめざした知識も習わないし学習もしないのに皮肉なことだ。

サラリーマンとか一般人が人格の向上を人生の目的にする人はどのくらいいるのだろう。けっきょくそういうものをめざしたり、教育されれば、戦争や国家に利用されるだけだというキツイ戦後の反省から、人格教育はおこなわれなくなったのだよな。人格者は国家や社会にうまく利用されるという逆説。


会社と個人の分離

残業をまったく禁止された社会をつくってみろ。若者をよく甘えだといわれるが、会社も残業に頼って甘えを許されている。会社の甘えを厳しくとりしまる社会でないことが個人や社会の幸せを奪っている。

被雇用者はどこまで会社の利益や儲けに同一化すべきか。一心同体を推奨されてきたが、こんなバカな話を信じる人はおめでたい楽観主義だろう。会社とわたしは違うし、利益ともとめる幸福はもちろん違う。ここが未分化であることが日本人の不幸。

個人が企業化されたことが戦後日本人の不幸。この解体をできないことが閉塞感をつくりだしている。終わりなき日常。ウォルフレンは政治化された社会だとよんだが、わたしはどう見ても政治に関心のある若者、選挙にいって有益感を感じる人はすくなく、企業化されたという実感のほうが強い。

国は企業と結託して労働者をしぼって金を稼がせて働かせたほうが税金や利益はふえるが、個人や国民は江戸時代の農民のようにこきつかれて重税に苦しむ人生に幸福を感じるわけがない。労働者は国家と企業の鉄の結託に酷使されているのだ。

国と企業の論理を内面化され、同一化してしまった日本人の不幸。この未分化の乖離、ひきはなしはどうやったらできるのか。

学生のころは労働基準法があって国民は守られていると思うが、事実上こんなものはないも同然。就業時間内に帰られると思ったら大間違い。仕事が終わるまで帰られるわけがない。労働基準法、労働基準局は透明な存在、あまりにも透明な存在。

宗教のような国家に抗する権力団体が弱いのが日本の弱点だと思う。企業の権力に抗するような団体がない。政治では三権分立が標榜されるが、日本ではほかの権力にたいする寛容さがない。そして個人がどこにも守られない無権利状態にハダカで放り出されるのだ。


ふつうの仕事に大卒資格は必要か

中小企業はたんに兵隊をほしがっているところがある。でも大卒だからといって仕事につかえる頭をもっているとは限らないのだが。 / 大学進学率は、中小企業が多い日本社会にはオーバースペックだ http://anond.hatelabo.jp/20101130211141

いい会社に入ろうとして多くの人が大学にいこうとするが、中小企業では大卒者に与えるような仕事がたくさんあるわけではない。しかし高卒のほうが就職率は低い。驚くほど低くなっている。大学いったら仕事あると思っても、大卒レベルの仕事はない。仕事の内容と人選びの論理が食い違っている。

会社は大卒をとろうとして、学生もいい会社に入ろうとして大学にいこうとするのだが、会社の仕事は大卒に値する仕事ばかりがあるわけではない。仕事の質と選抜の論理がどんどん乖離している。仕事の多くって大卒の資格がないといけない高級なレベルのものが多いとは思えないが。

選ばれないから大学行くしか仕方がないけど、仕事は大卒レベルを要求する仕事ばかりじゃない。選ぶ論理だけがはるか上空に飛んでいっている状態。20世紀の大企業の創業者の多くは大卒者じゃなかったとドラッカーもいっていたし。

教育の基準が上がったとしても、サービス業に大勢の人がつくとしたら大卒の資格って必要なのか。技術系とか理工系の大学なら進路によって役にたつ知識は学べるかもしれないが、文系の理論学問を学んでもサービス業にあまり役に立つとは思えない。だから仕事関係の自己啓発が売れる。

教育の高度化というのは金持ちの生活維持費みたいに一度上がってしまったらなかなか下げることができないことと似ている。ムダで無意味な出費とわかっていても、一度カサが上がってしまったものは下げられない。徒労で無意味な進化の袋小路みたいだ。サーベルタイガーのキバとか一角獣のツノのように。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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