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10 22
2010

セラピー・自己啓発

外界に殴られるのではない、殴るのはあなた自身の考えだ

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 あいつがひどいことをした、あいつがひどいことをいった、だれだれがわたしのことを悪くいっている、と思ってわたしは頭の中でどうしよう、どうにかしたい、ぎゃふんといわせてやると始終考えることになる。

 他人や他人の頭の中、出来事を変えないとわたしに安らかさと晴れた心はやってこないと思い込む。しかしいますぐその腹立ちを捨てほかのことを考えたり、中断したり、ほかの楽しいことに目を向けることもできる。外界の変更をあきらめて、さっさと心の安寧を図ることができる。

 しかし人はそれをしない。あいつの謝罪を聞いたり、言い分を変えたり、あいつの後悔したさまを見ないと、いっときもそのことから頭が離れることはない。他人や出来事が変わらないとわたしはそのことから離れることはないのである。いますぐそれを捨てて平安を得ることができるのに。

 他人を変えないとわたしに地上の楽園はやってこないのである。

 しかしそう考えることは他人が変わらないかぎりこの世は地獄なのである。

 この考えはわたしを他人や出来事の犠牲者にしつづける考え方である。他人の奴隷やくびきにかけられた生き方を強いることである。

 他人を変えることは強者や支配者になれる一方、それができなかったり、それが完遂するまでかれの犠牲者になることであり、苦痛や不幸をかれのために背負わされることであり、そしてその腹の立つ相手の奴隷となり、依存しつづけることである。

 わたしは逆説的に支配者でありながら犠牲者であり奴隷である。他人や外界を変えないと平穏が訪れないと考えることは他人や外界の鎖につながれることであり、依存や服従することである。他人や出来事からまったく自律できていない。

 わたしたちは他人や外界の犠牲者になりつづけている。それは考えを捨てたり、ほかのことに目を向ければその苦痛が去るという考えをもっていないことによる。思考を捨てれば、対象の変更をあきらめれば、平安が訪れるという選択肢をもたないことによる。

 なぜ人は愚かなこの習慣におちっているのだろう。ひとつは思考の変更による平安という方法は仏教の伝統であったのだが、日本的後進性としてそれを切り捨てたこと。思考や解釈を捨てることは政治的盲従や服従を生むという近代的自我の考えが一般的な思考習慣となっていること。

 もうひとつは思考のフィルターという存在を忘れた、知らないこと。他人や外界を変えるのではなく、考えや解釈を変えれば平安が訪れるという考えを人が知ることが少なくなった。他人や外界をまず変更させるということは、思考のフィルターの存在を忘れて、外界を変えることでしか心の安楽はこないと考える結果である。

 つまり怒りや悲しみの感情はわたしの考え方や解釈が生むのではなく、他人や出来事がちょくせつもたらすものと思い込んでいる。だから怒りや悲しみを去らせるには他人や外界を変えないとやってこないと思い込む。考え方や解釈のフィルターという存在を忘れているから、外界の変更しか心の平安は訪れないと思い込むのである。

 思考を捨てる、解釈を変えるという仏教的教えを失った日本社会はひたすら他人と外界の変更にしかわたしの心の平穏はこないのである。そしてわたしは他人や出来事から自律できず、その不幸や苦痛の犠牲者になるのである。思考のフィルターを意識しないということは他人や外界に殴られつづけて、一歩も外に出られない思考習慣をもちつづけることである。思考を捨てたり、解釈を変えればその鎖はかんたんに外せるのであるが。

 この思考や認識のフィルターはおそらく西洋の物質文明との発展に密接にかかわりがあるのだろう。心を変えれば安らかだと思う社会は物質的な進歩をしないだろう。あきらめや諦念による幸福をすぐに志向してしまうからである。その思考のフィルターを捨てて、外界を変えないと幸福を得られないと考える社会のほうが外界の改善や発展、物質的進歩をもたらすだろう。わたしの不幸は外界を変えないと改善されないと考える。外界の改善や進歩は必死におこなわれるだろう。

 わたしたちは物質的進歩を選んだために、心のフィルターを忘れる写像理論をもつようにいたった。心という色メガネを忘れてしまったのである。自分が色をつけておきながら、色がとれないのはおまえのせいだという。色というのは社会的な基準や道徳といってもいいだろう。感情や自尊心の交換をとりもどす帳簿のようなものだが、この交換が終わるまで取り引きは終わっていない、つまり許されない状態になる。そして許されるまでわたしは心の煉獄に閉じ込められるというわけである。

 わたしたちは心のフィルターを忘れることによって物質的繁栄を手に入れた。そして改善が完遂するまで心は満たされない不満と苦痛の代価も得たのである。物質消費社会が思考や自我にこだわり、思考や自我を捨てる新興宗教を毛嫌いする理由がわかるというものである。

 人は物質的進歩を得るためには心の平安を得てはならないのである。物質的改善がおこなわれるまで苦痛と苦悩を背負ってなければならないのである。さもないと物質的な改善も進歩もおこなわれないからである。

 こういうところに心や思考という色メガネを忘れる社会的誘導というものがありそうである。殴っているのはおまえだといいつづけて、殴っていたのはわたしの考え、心だと気づかないところに物質的進歩はあるようだ。自分に殴られつづける人生は幸福だろうか。

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Author:うえしん
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