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10 13
2010

映画評

『エルム街の悪夢』と現実

 眠ると夢の中で殺人鬼に殺されるという『エルム街の悪魔』というホラー映画があった。現実の中では殺されないで夢の中に入ると現実に殺されるのである。夢は現実に存在しないものを夢見るものだから、夢の中で殺されるわけがない。この映画ではどうして夢で殺されたのだろう。

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 夢の不思議や眠ることの不安を殺人鬼の恐怖と結びつけた映画だが、わたしはこれを「現実」のあり方の比喩だと捉えたい。

 夢は現実に存在しないものだが、人はその存在しない夢を現実だと思い、その現実に殺されるのではないかという比喩をたくみに語ったという解釈を提供したい。

 わたしたちが「現実」と思っているものは夢なのだ。

 どういうことかというと、わたしたちが頭で思い浮かぶ現実というのは想像やイメージであったり、言葉の構築や思考の編み物であったりする。これをじっさいにある、目の前に起こっていることだとわたしたちは思うのだけど、それは頭のイメージと同じである。現実というのは言葉や想像でイメージされた仮構にしかすぎない。

 時間で区切ればわかりやすいだろう。時間というのは現実に存在するのはいまだけである。過去はもう存在しない。未来もまだ存在しない。いましか現実に存在しないのだが、そのいますら一瞬に過去にすべり落ちている。はたしてわれわれは次々と時間が去る中でいまという現実にふれることはできるのだろうか。わたしたちがふれることができるものはほとんど「夢」なのだ。

 人は「地図」にすぎないものをじっさいの「大地」と勘違いするといったのはケン・ウィルバーだ。頭で思い浮かべるのは「地図」にすぎないのに人はそれを「大地」と勘違いする。そしてその「地図」のリアリティーは半端ではないのである。

 わたしたちが悩んだり、苦しんだり、悲しんだりすることはほぼ過去のイメージや思考の構築物である。未来の不安や恐れである。そして時間が現在しか存在できないなら、それらはすべて現実に存在しないもの――すでにないもの、あるいはいまだにないものである。わたしたちは夢の中で悩んだり、苦しんだりするのである。

 まさに「夢に殺されている」のである。

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 わたしたちはなぜ「夢」の比重がこんなに大きくなり、「夢」から覚めなくなったのか。言葉の想像やイメージにすぎないものを現実と思ったり、あるいは考えるわたしこそが「わたし」であるという強い思い込みによるところもあるのだろう。思考や想像こそが社会生活を送る上で必要な資質であり、頭の使い方である。これを「夢」であると思い込むのはむづかしいだろう。しだいに「地図」を「大地」と思うようになるのだ。

 「夢」を去らせるのはかんたんではない。それは社会生活の核であり、わたしの意識をつちかう支えとなるものだからだ。わたしたちが夢で殺されないためにはひたすら思考をなくしたり、頭を空っぽにする瞑想の中でしか気づけない、得られないものであるかもしれない。

 夢はいまも思考や言葉、イメージによってタコの墨のように煙幕を張りつづける。夢はどんどんいまもつくられている。思考も言葉もイメージもない、澄んだ、空っぽの意識の中にしか夢からの覚醒はないのだろう。フレディはいま目の前にいま生成されているのである。



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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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