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07 25
2010

労働論・フリーター・ニート論

金儲けを嫌えば、利己主義者になる

 皮肉なことだと思うのだが、金儲けを嫌えばなぜか利己主義になる。ふつうは金儲けをする人が利己主義だと思うものである。この側面があることを否定しないが、金儲けの利己主義を否定する人は利己主義になる。

 なぜだろうと考えてみたい。

 金儲けを利己主義だととらえるようになると、世の中は奪い合いや泥棒の世界に見える。人は奪い、盗み、わたしの利益やお金をかすみとる悪人の世界観になる。わたしは奪われないように自分のお金をふところにしまい、ちょっとやそっとでサイフを開かないようになる。みんな疑わしい盗っ人で、鵜の目鷹の目でわたしのお金や利益を奪う存在に見えてしまう。

 営業のセールスはわたしからお金を奪いとろうとする儲け主義者にしか思えないし、店員が声をかけてくればむりやりわたしからカネをむしりとるハゲタカに思える。お金のかかわる商売の世界は汚い利益主義者の奪い合いの世界だ。商売やビジネスは利己主義者の強奪の世界に思えるのである。

 わたしはケチケチしたお金の使い方しかしなくなるし、人のためにお金をつかったり、大盤振る舞いをする気もちも気が知れないということになる。人に贈り物やなにかの施しなどしたいとも思わない。

 お金の使い方はまた人との関わりあい方でもあり、この世界とつきあい方の姿勢にもなる。わたしは強奪の世界で必死にふところのふろしきをかばっている防御の姿勢で固まることになる。世界を利己主義者の世界と思うとわたしも自分を守るために利己主義者になるのである。

 しかし世の中の見方を変えてみよう。社会は互酬の関係でなりたっている。互酬の関係にかなわないものは関係が断たれる。ギブ&テイクのバランスが崩れるとふつうは取引はおこなわれない。社会は互酬の関係で見てみなければならない。社会のおおくの側面はこの互酬性の大原則で考えてみるべきである。互酬がとぎれるものはこの社会から退場させられるものである。そう考えるのなら、奪うだけの関係で世の中はなりたつだろうか。

 わたしがお金を払うのはなんらかの利益や楽しみ、便益があると思うものに限られる。損したり、被害がおよぶものや不要なものにお金を払ったりしないだろう。泥棒にお金を率先して払うものはいないし、自分だけ得しているような公務員であるとか、儲けばかりを考える悪徳企業にお金を払おうと思わないだろう。あくまでもお金を払うのはわたしの便益や利益、楽しみにかなうものである。

 商売の基本は他人になんらかの便益や利益をあたえるからこそなりたつものである。つまり利他主義が先行している。金儲けや利己主義と思われるものであっても、さいしょには人になんらかの便益や利益をあたえないと、だれもお金を払うことはないし、サービスを利用することもない。社会や人の役にたっているのである。

 お金というのはこの利他主義やサービスが強制されたシステムである。お金を得るためには社会に役立つこと、なんらかの便益を与えないとお金を得ることはできない。お金とは利他主義がビルトインされたシステムである。金儲けや利己主義だけでなりたつものではない。あくまでも人がそのサービスを便利だと思ったり、ほしいと思ったり、価値があると思ったものだけにお金を支払う。金儲けをひとりしたいと思ってもこのステップをこえないことには社会にサービスとしてなりたつことはない。

 ではどうして金儲けのこの側面を見ないで、利己主義や強奪に見えてしまうのだろう。なぜ奪い、自分だけが得をして金を儲けていると思われるのだろう。

 そこには貧乏人のスパイラル・メカニズムがあるのかもしれない。貧乏人はお金がないためにサイフを固く閉めなければならず、そのために世界の人たちは自分の少ないお金を奪う強奪者や強欲者に見える。ますますお金をつかわないので、人のためになにかをしたり、お金をつかうということがない利己主義や自分を守るだけの存在になる。社会に与えたり、役にたつことを与えられない人には社会はお礼を返してくれることない。そうしてますます貧乏になり、強奪者の巡回は脅威に見えてくるということではないだろうか。与えられることがない人は社会から与えられないのである。

 社会は互酬やお返しでなりたっている。多く与えたものは多く返ってくるし、少なくしか与えられないものはほとんど返ってくることはない。いいサービスや商売にはお金をたっぷり使っても惜しいとは思わないが、ほしくない、いらないサービスにだれもお金を払わない。それと同じである。かれは社会を強奪や利己主義の世界ととらえたばかりにかたくなに社会に与えることをせずにますます貝が閉じるようになる。自分を守るために利己主義になってゆくのである。人のため、社会のためになにもしなくなってゆく。

 この社会を互酬性でとらえなければならない。世の中は強奪者や泥棒だけでなりたっているわけではない。金儲け主義者や利己主義だけでなりたっているわけはない。金持ちになったのはまずは社会に便益や楽しみを多く与えたからである。利己主義や金儲け主義だけでお金がそんなに集まってくるわけではないのだ。

 もし自分が貧乏でちっともお金も境遇もよくならないと思うのなら、この互酬性の目で見直してみるべきだろう。わたしは与えているだろうか。それとも自分のことを守ろうとばかりしていないだろうか。互酬性を見ないといっぱい働いているのに給料がふえないだとか、給料がこんなに少ないのだから働く時間を減らそうとなる。

 少なく与えて多くもらおうという考えばかりになる。互酬性で考えるのならより多く与えた人にリターンは返ってくる。だれも少ないサービスに多く払おうと思わないものだし、少ない容量に多く払わない。多いサービスや多くなった容量に喜んでお金を払うものだ。得や利益が多くなったから人はお金を払うのだ。会社の給料も多く与えた人に多く払い、少なくしか与えないものには少なくしか与えないものである。奪う世界観をもっている人は与えることより、もらうことばかり見てしまうのである。自分の与える量を見れないのである。

 道徳くさい話になったが、たんじゅんな互酬性や足し算引き算の話である。合理的で数量的な関係でこの社会はなりたっている。冷徹にこの関係を見るべきである。互酬性とはプラスを与えた者にプラスが返ってきて、マイナスしか与えないものにはマイナスしか返ってこないという単純な交換のことである。社会を奪うものと見るか、与えるもので見るかによって、人生のリターンは大きく変わるようである。

 もっとも社会はこの麗しき互酬性のバランスだけでうまくなりたっているわけではないだろう。道徳や利他主義だけで社会はコーティングされているわけではない。じっさいは金儲けや利己主義で金や権力が倍々ゲームになっているばあいもあるだろう。この側面も否定しないし、この側面との整合性をわたしもまだ統合できない。

 しかし、社会は奪うものより、与える側面で見たほうが自分の人生によりリターンを返すのではないかとわたしは思うようになってきた。このようなことについて考えたよい本をだれか知りませんか。


だれか金儲けと利他主義について考えた人はいませんか。
ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣 (だいわ文庫)夢をかなえるお金の教え 豊かさの知恵 お金と幸せを呼びこむ「経済自由人」という生き方人生は勉強より「世渡り力」だ! (青春新書インテリジェンス)国富論〈1〉 (岩波文庫)道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

蜂の寓話―私悪すなわち公益 (叢書・ウニベルシタス)
バーナード・マンデヴィル

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Comment

マネーは、銀行の”信用創造”で、市中にある絶対量が増えていくのですが、現在は、おっしゃる通り、不況で、どんどんマネーを使用しようとしないまたはできない状態に落ちいってるため、”信用収縮”が起きていて、ますます、マネーは、循環せず、下々まで行き渡らなくなる。
結局、誰かの借金が、誰かのマネーになってるので、借金が減っていけば、マネーもどんどん市中から消えていくということになる。

この社会を奪われるものと考える人がふえれば、経済の活動は収縮してゆくのだと思います。

与えれば豊かになってゆくという見通しが立てれば、経済も豊かになってゆくのでしょう。

信用や信頼が経済をつくってゆくのでしょう。

自分も与えることがなかなかできないタイプだけど、なぜだか考えてみた。
たとえば「損して得取れ」という商売の基本があるけど、損したところで得をする保証はない。つまり、得するかどうか不明の段階で、損だけを確定させなきゃいけない。社会は互酬の関係でなりたっているのは百も承知だけど、それは100与えて100戻ってくることが保障された世界というわけではなく、確率的な期待に過ぎない。
つまり、多くの人が与えることができないのは、合理的な判断の結果なのだと思う。

たぶん、金儲けができる人というのは、損する前に、自分が得をしている認識があるはず。これは幸せを実感できる人の「スパイラル・メカニズム」と言ってもいいけど。すでに自分が「得をしている」という感覚が身についているから、「得しているから少しはお返しできる」という合理性に基づいて「得→損→得」という好循環が生まれる。

つまり、「利他」から始めるのは聖人でもない限り無理な話であって、何よりもまず「利己主義」の満足こそ出発点ではないかな。「自分はやりたい放題、好きなように生きている。幸せだ」という幼児的かつ健康なナルシシズムこそ利他の根底にあると思った。

利他主義は自己犠牲によってなせという教えがありますね。自分が損をすることはすばらしいことだと。

フロムは自分が幸せでない人は他人を幸福にできない、救うことはできないといいました。利他主義は利己主義の満足のあとにこなければならないということですね。

貧乏人は自分を守ろうとして他人に幸福やサービスをよぶんに与えられず、社会からのキックバックはジリ貧になるスパイラルに陥りますね。

商売に成功した人は利己主義と利他主義の循環をうまく結びつけ、報酬をそこにくみこみ、かつ、自分を守り利己主義に陥らない道を発見したということになりますね。

利己主義の満足の追求の方法に分かれ道があるようですね。与えることに利己主義を感じられた人が社会での適応度を増すのでしょうね。

役に立つと偽って、本当は役に立たないものを売る行為もありますよね。
あるいは役に立つ度合いが低いのに、価格が法外に高いとか。
私は外食が好きなんですけど、こういう例があります。
最初はフライパンで炒めていた料理が、レンジでチンするだけになって味が落ちた。量も少なくなった。なのに値段はそのまま。
これこそが「少ししか与えていないのに多くを得ようとする行為」ではないのですか。
多くを与えた者は多くを得る?少ししか与えない者は少ししか得られない?
だったらワーキングプアって何なんですか。
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