HOME   >>  読書  >>  ナゾを解くから学問はおもしろい
07 05
2010

読書

ナゾを解くから学問はおもしろい

 わたしは20歳ころまでまったく本を読まない人間で、勉強もできなかったが、いまで学術本や学者の本ばかり読む学問好きの人間になった。どうしてこうなったかというとナゾかけと読書を結びつけたからだ。

 「なんでだろう」「どうしてだろう」という気もちをいつまでもとどめて、その答えを本に求める。するとおカタクて、読めそうに思えない学術書でも読めるようになる。疑問やナゾに思う気持ちをもって読んでいくと本というものは読めるものである。頭のよしあしではない。たんなる興味の強度の問題である。

 本を読まなくなった人は学問を覚えるものとして思い込んでしまったのだろう。だれか学校の教師とかどこかのエライさんがこれを覚えろと学問や知識を押しつける。興味も関心もちっともない無味乾燥な知識を押しつけられる。興味というスポンジがない上にいくら知識を植えこもうとしても根づくことはない。腹が減っていないのにむりやり押しつけられた食べ物は見るのもうんざりだ。

 学問をこういうものと覚えこんでしまうことは残念だ。学問というのはミステリーであり、宝探しであり、未知への冒険である。娯楽であり、道楽であり、趣味であるとわたしは思っている。それが読めるようになるのは頭がいいことや才能があるからということではない。たんなる疑問と関心の持続の問題である。

 「教えられる学問」というのは生徒の興味や関心から発せられるものではない。文部省や教師のカリキュラムに従って教えられる。勉強というのはそのエライさんたちがこれを食えといってむりやり食わされる好物でもない食べ物である。勉強というのは他人事の知識を押しつけられる行為である。サービス者の嗜好や好みによって押しつけられる知識である。

 生徒はそれを消費することによって、学問はますます他人事となり、たんなる暗記のための記号となり、自分と関係のないキーワードとなる。せっかく学んだ知識はだれかによって覚えろといわれた記号の消費にすぎなくなる。人生の知識となりえた知識は他人事の、よそよそしい記号となり、人生の役に立つ言葉にもなりえない。自分の必要や必然がまったくない知識は自分のものとならない蚊帳の外の知識となる。

 当事者になることほど知識の吸収力に必要な条件はないと思うのだが、勉強にはこのいちばん大切な初歩的な条件がはじめから欠如している。沼地や湿地に橋や土台が建てられないように学校で習う勉強はほとんどが湿地の上に学問を立てるようなものなのだ。

 暗記の知識というのは完成品を店で買ってくるのに似ている。疑問やナゾに思う気持ちは自分で部品を買ってきて組み立てる過程に近い。図面だけ見るのと、じっさいに組み立てる体験はおおいに違う。組み立てることによってわからないことや納得しないことが山ほど出てくる。さらに知識を学んで違う部品を選んだりすることは学問と似ている。完成品を消費するだけでは身につかない知識や問題解決への必要とかが生まれてくるのである。完成品はそれ以上の追求がおこなわれないのである。

 本を読まないとか学問に興味のない人が多いのは完成品の消費とナゾに思う気持ちからの学問の道順を知らないからだろう。学校の勉強はふたつの障壁を人に教えるのだ。世の中の学問・知識は完成しているということと、学問とは興味のない知識を覚えることだと思ってしまうのである。

 だから世の中の知識は未完成品だらけであり、ナゾやわからことを追求するのが学問だと思うようになると学問のおもしろさはわかると思う。完成品などなにひとつないのがこの世界である。あるいは自分にとって世界は知らないこと、わからないことだらけだと前提にすることが学問の道だと思う。自分のナゾや疑問に思うことをどこまでも手放さないで、学問書によって追求することが学問を楽しくする方法だと思う。

 本を読まない読まないといわれるが、本を読まない人も趣味であったり、映画や音楽、スポーツなどをどこまでも深く追求したりしているものだ。どうして本ではそれをせずに趣味には深いエネルギーをそそぎこむのだろう。おもしろさや興味があるからだ。本や学問もそれらの趣味や道楽のひとつに違いないはずである。

 どうして学問や本だけは違ってしまったのか。娯楽や趣味の楽しさを奪ってしまったからだろう。そういう趣味や娯楽の楽しむ方法を本に適用したらそれを楽しめるというものである。本や学問は学校という強制システムができたために趣味や道楽を奪われてしまったのだろうというしかない。



4488006884脱学校の社会 (現代社会科学叢書)
イヴァン・イリイチ
東京創元社 1977-10-20

by G-Tools


関連記事
Comment

書を捨て町に出よう、と言ったのは故・寺山修司氏ですが、逆に当時は本を読む人が多かったのでしょうね。

学生運動なども本を読んだインテリが巻き起こした感があります。
さしずめ現代ではネットを捨て町に出よう、と
なるのかもしれません。

確かにネットは一方通行でなく、このように文章の
やりとりができる利点がありますね。

その一方で故・岡本太郎氏が書いていましたが、
「読書というのは自分との対話だ」いう論もあります。
他者が書いた本というものを通して、自分と対話を
しているんですね。

本を読むことで知らなかったことが分かったとか、
そういう言い回しがあったかと思ったりすることが
あります。

もうひとつは、改めて自分に気づく場合です。
新たな発見等でなく、自分が思っていたこと、
自分が持っている資質を本を通して教わる。

つまり読書とは自分との対話であり、
自分を映す鏡でもあるんですね。
それは暗記する、点数をとるということとは、
まったく別次元の楽しさがありますよね。

街に出ても自分の思考の習慣以上の思考ができることはありません。本を読まないということは自分の思考の枠内だけにとどまってしまうことだとわたしは思います。

自分との対話は本を読むより、自分でものを書くほうが自分で考えていたことの発見はあると思います。書かないと自分の考えすらわからないということはあると思いますよ。
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top