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05 18
2010

国家と文明の優劣論

「紋切り型ジャパン」イデオロギーのウソ



 日本をあらわす紋切り型の表現はだれもが口にしやすい言葉であるが、その裏にはイデオロギーやなんらかの意図がこめられていると考えるべきだろう。いわく「日本は島国で、資源がなく、単一民族で、農耕民族である」うんぬん。ひじょうにポリティカルな操作性のある言葉だと警戒したほうがいいだろう。

 「日本は島国である」というのはそのあとに世界から閉ざされたド田舎だったという批判がつく。日本はむかし国際性や開放性がない鎖国的状態だったという批判である。だから内にこもっていないで外に目を向けろ、外に出よということである。

 ここにこめられているのは批判よりか、単一民族説や一体感意識だろう。純粋な日本民族や隔絶された日本性といったものが純粋培養されており、わたしたちはそこに立ち返り、その強さや力をもっているのだから外国に強く打って出なければならないという教訓である。日本民族や日本文化の純粋性、強さが表象され、郷愁される。

 島国というのは世界から隔絶された、孤立した田舎だったという表象がセットでつくのだが、だから世界で学べ、世界に目を向けろという指示があとにつづく。

 しかしこの言葉ほどウソのある言葉はない。島国というのはこんにちの電車や車で陸地を移動する感覚から出た言葉でそれらがなかった以前は船が移動や運送の大部分をになっていたのだ。つまり海に囲まれた島国であるからこそ、船舶移動や運送が盛んであり、世界につながっていたのである。世界の繁栄した都市というのは海運が盛んな港町からことごとく生まれている。アムステルダムにジェノバにリスボンに地中海に大阪。港だったから世界につながっていたのだ。島国というのは閉ざされた孤島ではなく、だからこそ船舶商業がさかんで世界とつながっていたというべきなのだ。

 国際性や貿易がなかったという表象は進歩史観の優越感には役立つ。こんにちは進んでおり、むかしは田舎で遅れていた、そう思うことによりこんにちの先進性や優越感を安堵できる。むかしの日本は田舎だったとバカにできることでこんにちのわれわれの努力、勤勉、技術の役割や必要性を思い知らされるということである。過去をバカにできるからわれわれは安心してこんにちの努力は優れていて、安心して努力に励みなさいということである。

 おかげで過去の国際性、開放性はあってはならないことになった。過去の日本は閉ざされた日本でなければならなくなった。墨でぬりつぶされた。古代、日本はどこともつながっていないことになった。朝鮮や中国に出かけるのはたいへんな大事業で、生きて帰れない人が続出したことになっている。ペルシャやイスラム、中央アジア、ヨーロッパなどとつながりや文化伝播などなかった、あってもわずかだったという思い込みがおおうことになった。たまに思い出したように世界のつながりがいわれるが、閉鎖ジャパンの表象はゆるがない。日本は世界から閉ざされていなければならない、現代の優秀性、卓越性のために。

 資源が日本にないという言葉はだから日本は技術や工業あるいは勤勉で食ってゆくしかないということである。いまよりいっそう働けということである。しかし堺屋太一がいっていたが、資源がないから外国から安く買いつけることや選ぶことができるのである。もし資源があれば自国の高い資源を買う羽目になるだろう。自国で生産されるものは保護された農業のように高く買わなければならないのだ。否定される日本にはウソがある。

 単一民族説というのは閉鎖ジャパンの核である。まゆでつつまれた純粋な日本文化、日本人がいたという表象をたもつことによって、日本の一体化、一枚岩を演出する。仏教と神道のみが日本の伝統文化だったという思い込みや排除も日本の一体性や隔絶性を強く表象させる燃料になる。朝鮮や中国からの渡来人も仏教や先祖というワードでつつめば、一体感や同一感を演出できる。先祖が同一であったら、併合や植民地支配もOKということになる。かくしてまゆにつつまれた純粋ジャパンはゆるがない。

 農耕民族イデオロギーはなにをもたらしたのだろう。この言葉も日本人の画一性、同質性を表象させる囲い込みの言葉だろう。むかしの日本人はみんな農耕民族であり、一所定住で勤勉にはたらいたということである。周辺やそれ以外ではたらく人は日本人の祖先として切り捨てられた。海運や漁業ではたらく人、山で猟や運搬、鉱山ではたらく人も切り捨てられたし、商業や工業ではたらく人も捨てられた。こんにちの社会がおおくの分業でなりたつように歴史的な社会もおおくの分業でしかなりたたないはずなのに、あたかも農地を耕す人だけで社会がなりたっていたかのように思い込む。

 農耕民族はヨーロッパ的な狩猟民族との対比で語られる。純朴な農民と対比される獣を狩り、野蛮な肉食人系のヨーロッパ人。あるいは平和的な農民と、好戦的な狩猟民族。いっぽうは血を好み、いっぽうは平和で純朴な生活を好んだ人たち。善人と悪人、という対比といったらいいか。この対比においてわれわれはどんなに純朴な善人に祭りあげられてきたことか。きっとこの言葉には西洋への非難がこめられているのだろう。しかしこのイデオロギーのおかげで日本のおおくの先祖の歴史は見えないものにされ、存在しなものとしてされてきたことだろう。西洋より優れているという表象を得るために先祖の歴史とおおくの日本人はかき消されたのだ。

 紋切り型の日本像が固まってゆくごとに日本のおおくの姿は切り捨てられてゆく。そしてそれと相反する価値観は日本の歴史からかき消され、事実と違う歴史像として反発され、うけいれられることがなくなる。事実があるのに見えない、うけいれられなくなってゆく。つまり歴史とは今日のわれわれがそうあってほしいもの、見たいもの、好都合な表象のかたまりと化してゆく、それと相容れない歴史ははじきとばされるか、忘れ去られるだけである。紋切り型にあわない歴史は切り捨てられ、歴史のピースにも入れられないのである。

 紋切り型の日本像というのはこんにちのわれわれにとって都合のいい製造装置のスイッチなのだろう。優越感がほしければ劣等型の日本像がつくられ、善人になりたければ悪人の外国像が形成されてゆく。まあ、歴史なんてものに客観性や中立性はなくて、たんなるご都合主義的な取捨選択しかないと限界を知るほかないというものかもしれない。ならばせめてその歴史がなにをあらわすのか、なにをいいたいのか、なにを意図してその歴史はピックアップされたのか、透徹した眼で見るしかないというものである。

 この歴史はだれがなにをいいたいがために映し出されたものか、そう見るしかないということである。歴史とは人間の欲望でしかないというほかない。


参考文献
南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)日本人という自画像―イデオロギーとしての「日本」再考「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー (中公文庫)比較文明 (UP選書 (243))

柳田国男讃歌への疑念―日本の近代知を問う
風媒社 1998-04


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Comment

かれこれ15年近く

かれこれ15年近く読ませていただいています。

日本人論のステレオタイプ化は為政者の都合で作られたものなのでしょう。

それを無邪気に、あたかも自分が優れているとの勘違いしている。

どこの国もそうなんだろうけど、自分だけは特別と思いたい。そんなとこですね。


昨日ツイッターもフォローさせていただきました。

ありがとうございます。

ホームページをはじめたのは97年からでしたから、もう十五年も前になりますね。

月日の速さにぼうぜんとするしかありませんし、この月日のあいだに成長することができたのか、はなはだ心もとないです。

うれしい便りありがとうございます。
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