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05 07
2010

TV評

『八日目の蝉』はなぜ泣けるのか

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■映画をごらんになった方へ

 こちらは2010年に映画に先がけて放送されたNHKドラマの感想エッセイです。主演は檀れいと北乃きいで、すこし違和感はあると思いますが、おなじ角田光代原作の映像化なので、内容は共通するものです。ドラマのほうが希和子目線で全六回たっぷり描かれたので、こちらのほうが泣けたのですが。

 ドラマはNHKオンデマンドで全六回、有料で見られます。お金のない方はこちらでもごらんになれますね。「八日目の蝉 ドラマ動画



 NHKでやっていた角田光代原作の『八日目の蝉』は泣けた。最終回はもう涙なしでは見られなかった。角田光代の最高傑作という評判だったが、これはたしかに名作である。NHKのホ-ムページでダイジェスト動画が見れるが、全六回をまたしても涙を流しながら見入ってしまった。

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 しかしこの作品はなにをいっているのか、いったいどういう意味なのかわからない。母の愛や子どものかわいらしさが情緒的に訴えられるから泣ける作品なのだが、主人公の檀れいは不倫相手の子どもを誘拐して育てる「犯罪者」である。それなのにどうして思いっきり「犯罪者」檀れいに共感してしまうのだろうか。新聞記事で見ると、「なんてひどい女だ」としか思わない犯罪者である。事件に接するわたしたちの想像力、共感の欠如を思い知らされる。

 これは失恋物語だと思う。失う愛が描かれているから泣けるのだ。親の愛がいつか奪われてしまう、失うもの、危ういものと知られているから、よけいに涙を誘う。親の愛というものはあたりまえすぎてあまり描かれないと思うが、他人の子を誘拐することによって、母の愛がうきぼりにされたのだ。音楽がまた悲しみと喪失感にあふれており、情感をもりあげる。

 作品のおもなメッセージは男の不倫や身勝手さを叩いているのだろうか。不倫の子をおろすのに失敗して主人公の女性は子の産めないからだになってしまう。不倫相手の妻にも「がらんどう」となじられ、女は衝動的に生後半年の子を誘拐してしまう。殺すのではなく、育てることを決意し、愛も感じる。母として生きることを決意するのである。

 自分の子どもだけではなく、ほかの子どもでも女は愛を感じることができるということか。母の愛は自分の子どもだけに育つものではないのである。しかし坂井真紀が演じる女は子どもの親権を夫にとられて、自分の腹を痛めてはいない後妻をなじる。ちかくにいた檀れいの母の資格を刺すのである。この物語はさまざまな母が出てきて、育児ノイローゼで子を殺した母、ゴミ屋敷の寂しい女など、ひとすじ縄ではいかない。

 小豆島で娘と暮した檀れいは母としての幸せの中で生きるのだが、終わりはとつぜんやってきた。8年の懲役を喰らう。娘は檀れいをすっかり母として慕い、母をけなげにかばう娘として育つのだが、とつぜんにほんとうの母と家族のもとに暮すことになってもしっくりこない。関西弁をしゃべる娘に嫌悪感を母はしめす。そして大人に成長した娘は誘拐した檀れいと同じように不倫の子を宿すのである。不倫に走った父とその母に二世代にわたって復讐がされるというか、呪われるような未来を導くのである。子どもは檀れいの愛をうけた子どもになっていたのである。

 成長した娘、北乃きいは檀れいのことをもう憶えていない。過去の忌まわしい記憶として忘れようとしている。しかい檀れいと同じように不倫の子を宿す。まるで檀れいへの思いを忘れていないかのようである。それにしても彼女はじつの母になぜ復讐のような仕打ちをおこなうのだろうか。「大好きな母」「ほんとうの母のように慕っていた檀」を悪くいうじつの母への憎しみ、そして檀を誘拐へと駆り立てた母の容赦ない攻撃の言葉、が絡まりあって北乃きいは母への復讐をおこなったのかもしれない。不倫は女が悪いのではない、弱い女をもてあそぶ男が悪いというのだろうか。しかしこのドラマでは男はメインテーマから外れているかのようだが。

 檀れいは五歳まで娘を育て、つかまって刑務所に入れられ、娘との幸福な日々を引き裂かれる。それはまるでほんとうの母娘の絆もこの年齢ころにひとつの親離れの時期をへて、社会や友だちの輪の中に子どもが去ってゆくことを象徴しているかのようだ。子どもは親のものから社会や友達へと軸足と気持ちをうつしてゆくのである。母と子の幸福で蜜月な関係はそこで終わりをつげるのである。

 この物語は誘拐という個別の事件をとりあつかっているにみえて、母親と子どもの普遍的な関係をあぶりだしたのだろう。母親はかわいい子どもをどこかから授かって、いつかは失う。個別から童話のように普遍性を獲得した物語だといえるだろう。

 成長した娘が逃亡先の小豆島にもどってきて檀と出会っても、娘は目をそらすのである。母はどんなに子を慕おうと、子どもがあのころのように母を慕うことはないということを象徴している気がした。母はいつか報われない愛の仕打ちをうける、そんなメッセージがこもっているような気がした。

 男のわたしでもこのドラマは泣けた。娘、子どもへの愛というものの悲しみはじゅうぶんに感じられた。女性だけしかわからないテーマではない。わたしは家庭や子どもと縁のない人生をおくりそうだが、子どもがかわいいという感覚は二十代ころまでまったく感じず、子どもがほしいという気持ちがほぼわからなかったのだが、三十代終わり四十ちかくになってようやく感じられるようになった。小さいものへの愛や守りたい気持ちといったらいいか。ペットへの愛と近いといえば実もふたもないが、おそらく小さいものの驚異やはかなさからくるものに近いのだろう。自分にとって得られない、失われたものだからこそ、よけいに気持ちがわかるのかもしれない。

 わたしがこういう母の愛といったテーマにまるで興味がなかったのもあるが、ドラマでこのテーマがとりあげられることは少なかったように思う。いまどうして母の愛なのだろうか。これまでの社会は消費を煽る社会であって、家庭や育児に価値をおく社会ではなかった。女性は家庭や育児に閉じこもる人生よりか、社会に出て消費や自己実現を図らなければならないという洗礼をうけてきた。社会は子どもを生み、育てるということにまるで価値をおかなかったし、人生のカッコイイ目標からかけはなれていた。しかし晩婚化や少子化によって、「うしなわれた」という気持ちが芽生えてきたから、このような物語があらわれたのではないかとわたしは思うのである。「うしなわれて、はじめてそのよさに気づく」ということである。


 【追記

  映画をなんどか見ると、親子の絆より、生命のすばらしさ、この世界のすばらしさを継承することの賛美に思えるようになった。無条件で生命や生まれた来たことを承認することの賛美。

 また、誘拐犯の母と実の母の関係は、童話の解釈にあるようにおなじ実の母のふたつの姿を象徴していると捉えることもできると思えるようになった。無条件で生まれたことを承認してくれる母と、条件つき、能力でないと承認してくれなくなった母の解離。「八日目の蝉」はそういった普遍的な解釈が可能になる要素がたくさんつまった名作に思えた。



▼テレビ版(わたしはテレビ版のほうが好きです)
B003U6E2T6八日目の蝉 DVD-BOX
NHKエンタープライズ 2010-09-24

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▼映画版
B005CZ7M72八日目の蝉 通常版 [DVD]
アミューズソフトエンタテインメント 2011-10-28

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▼『八日目の蝉』は角田光代の原作とちょっと違うようだから、原作のほうも読めたらいいなと思う。
八日目の蝉 (中公文庫)
中央公論新社 (2012-12-19)
売り上げランキング: 3,651



      *

 同じ時期に『MOTHER』という子の誘拐という同じテーマのドラマが放送されていて、パクリではないかと思ったのだが、こちらは虐待される子を救い出すという設定になっている。『八日目の蝉』のように泣けるドラマではないようだが、捨てられた子がその主人公だという設定は複雑なドラマを感じさせる。テーマを探れたらいいなと思う。

 子どもについてはカリール・ジブランのいい詩があるので載せておきます。子どもは自分のこどもではあるが、自分のものではないということである。

あなたの子は、あなたの子ではありません。
自らを保つこと、それが生命の願望。そこから生まれた息子や娘、それがあなたの子なのです。
あなたを通してやって来ますが、あなたからではなく、あなたと一緒にいますが、それでいてあなたのものではないのです。
子に愛を注ぐがよい。でも考えは別です。
子には子の考えがあるからです。
あなたの家に子の体を住まわせるがよい。でもその魂は別です。子の魂は明日の家に住んでいて、あなたは夢のなかにでも、そこには立ち入れないのです。
子のようになろうと努めるがよい。でも、子をあなたのようにしようとしてはいけません。
なぜなら、生命は後へは戻らず、昨日と一緒に留まってもいません。
あなたは弓です。その弓から、子は生きた矢となって放たれて行きます。射手は無窮の道程にある的を見ながら、力強くあなたを引きしぼるのです。かれの矢が早く遠くに飛んでいくために。
あの射手に引きしぼられるとは、何と有難いことではありませんか。
なぜなら、射手が、飛んで行く矢を愛しているなら、留まっている弓をも愛しているのですから。


カリール・ジブラン「子供について」: マダムNの覚書から引用させてもらいました。


▼テーマ曲 童神 ~私の宝物~/城南海 この曲でなんども泣かされました。

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母の愛

この作品が映画化されるというので
検索かけてこのサイトにたどり着きました
はじめまして
私の好きなシナリオライターの野島さんが
言ってたのを胸に置き子育てしてる母です
”母性”というのは、いつのまにか出てくると
思っていましたが、彼の作品には
「それはただの自己愛だ」というセリフがありました。
自分の身体の一部だと思うから、子供を傷つけられると痛くなる・腹もたつ
自分の思うようにいかないからイライラもする
これは全部、自己愛
母性は、子供のずーっと先を観てる
子供が幸せな人生を歩めるよう願いながら、距離を置きながら長い目で観て守ってあげる・・
これが”母性”
自分は、まだまだ自己愛が出てしまう未熟な母ですが、心してます
映画、楽しみです

遅レスすぎてすいません。

まあ、あまり立派な親をめざさなくてもいいんじゃないですか。
親もふつうの人間だとわかったほうが社会勉強になる気が。。

わたしはNHKのドラマで充分だったのですが、いい映画ができればいいですね。

初めまして

今夜、何気なく、NHKBSで「八日目の蝉」を見ました。ドラマの面白さに、終わったあとネットで「八日目の蝉」を検索してブログを拝見しました。

何となくコメントしたくなり、書かせて頂きました。

個人的に人文科学に関心も持っていますので、親近感も覚えさせて頂いた次第でした。

失礼いたしました。

全編に渡って恐ろしいほど、つまらなかった。
終わり方も酷くつまらなかった。
バカじゃねーのってくらい、ひねりの無いストーリにがっかり。

俺も泣いた

最近、映画版の方を観ました。原作もNHKドラマの方も知らないけど、確かに男の自分も涙しました。

ドラマ評を読んだ限りでは、成長した恵里菜が小豆島を訪れた歳に、かつての育てられた誘拐犯・希和子に会ったようですが、映画ではその場面はありません。

その代わり、恵里菜が小豆島の写真館を訪ねた歳、希和子が逮捕される直前に2人で撮った〝家族写真〟のネガを見せられ、暗室でそれを現像するシーンがあります。その写真が浮かび上がるのとリンクして、意識の奥底に凍結させていた島での暮らしや、希和子から受けた愛情が解凍されていく…というラストを迎えます。

そしてお腹の中の子供に対し、「なぜだろう? 私、まだ会ってもいないのに、もうこの子が好きだ…」というセリフで物語が終わります。


自分は2人の男児の父ですが、最後のセリフで泣かずにはいられませんでした。

そこに至るまでの話の内容は、とにかく悲しくて切ないシーンの連続ですが、泣ける…というものではありません。

島を出ようとする直前に船着場で逮捕・保護される場面。

〝もう長くは逃げられない〟と悟った女が、写真館でエリナの手を握り、「今までありがとう」と告げながら精一杯の作り笑顔をカメラに向ける場面等…。

あまりに悲しい内容ではあるけれど、正直、涙はこらえました。

だけど、当時の記憶と想いを蘇らせた恵里菜が初めてお腹の子に対する母性に目覚め、ラストのセリフを吐くくだりは、それまでの辛さや苦しみから解き放たれたように感涙してしまいまったのです。


原作を読んでいないし、映画がどの程度アレンジされたものか分かりませんが、この作品が描いているのは〝隔世して受け継がれた母の愛〟だったと思います。


不倫、堕胎、誘拐…。そして逃亡生活の中で育まれた2人の愛情が無惨にも引き裂かれた後も、実の母娘の間に横たわる果てのない苦悩。

恵里菜を取り巻く3人の親…つまり実の父母と希和子は、3人ともが被害者であると同時に、罪深き加害者でもあります。

冒頭からラストまで、目を背けたくなるような人間の醜さや業(ごう)といったものを見せつけられる訳ですが、最後の最後に、希和子との4年間の生活の中で受けた愛情が、恵里菜を通して、まだ見ぬお腹の子に注がれる…。

恐らく恵里菜は、出産して子供を育てながら、誘拐犯・希和子の想いとともに、実母の愛情や苦しみをも理解する時が来るのでしょう。

少し時間が空いたのでレコーダーに録画してあった「八日目の蝉(映画)」を見る。

・・・全く分からない。結局何を言いたいのか?

レコーダーから消去した後、何度も頭の中で反芻してみるが、どうにも分からない。確か名作扱いされていた筈。

何か見落としているのだろうかと、検索して色々な感想を読んでみる。


う~ん。何故か皆、誘拐犯の女が子供を愛していると、勘違いして作品を見ているようだ。

誘拐犯の女は子供の事など一切愛してはいない。

彼女の中にあるのは自分の事だけ。

自分の欲望を満たす為の道具として子供を利用しているだけだ。

子供を本当に愛しているのであれば、その子供が最も幸せになれるであろう両親に返せばいいだけの事。

しかし彼女は子供の幸せよりも、自分の感情を優先している。

つまり彼女は、口では子供を愛していると言い訳しながら、自分の欲望を満たしているだけ。


映画の中では、誘拐犯の女が「子供の為に苦労苦悩している」かの様な描写が繰り返されるが、

彼女は最も楽な道を選んでいるだけ。

子供が産めなくなり、不倫相手とも別れなければならない という苦痛絶望(半分以上は自業自得でしかないが)から逃れる為に(精神安定剤的に)子供を利用しているだけだ。

誘拐犯の女も母親も、子供の事など一切見てはいない。

彼女等の中では、あの子供は「金で買ったペット」程度の認識だ。

母親は、所有者である自分に懐かない(自分を癒さない)ペットに苛立っているだけ。

誘拐犯の女も、買ってきたペットが本当の親を求めてどんなに鳴いても、全くペットの心情を無視する飼い主同様に自分の都合(欲望)しか頭にない。




子供は誘拐犯を愛していた訳では無く、保護者を求める本能に従い、最も身近にいる人間に懐いていたに過ぎない。


最後の誘拐犯の台詞も、子供の為に発した言葉では無く、自分が母親気分(自己陶酔)を味わう為、周りに母親アピールをする為の発言に過ぎない。

そもそも彼女が誘拐しなければ、子供が食べていない状況にはならなかった訳だからね。

本当に子供の心配をする様な人間であれば、そもそも その子供を不幸な状況に陥らせる行動は取らない。


(何故か、誘拐犯の女はシングルマザーに置き換えられているようだ。(勿論そう見せ掛けられているのもあるが)

あの子供は誘拐してきた子供であって、彼女はシングルマザーでは無い。

誘拐犯の最後の言葉も、(子供の事など一切考えていないのに)母親気取りもいい加減にしろ という怒りしか湧いてこなかった。

もしあのまま逃げ続けていれば、あの子供は義務教育すら受けられない。)





単純に映画の感想を言えば、リアリティーが無い。

設定・世界観がどんなに荒唐無稽でも気にならないが、そこで生きている人間(キャラクター)の行動が意味不明では説得力が無くなってしまう。

八日目の蝉に出てくる登場人物は全員が「自分の意思」では無く「シナリオ」に添って動いている。


例えば、

あの状況にいて、戸締まりもせず生まれたばかりの子供を置いて出掛けるだろうか?

(おそらく、ガラスを割って侵入したりすると犯罪色が強くなり、シングルマザーに見せ掛ける事が難しくなるから避けたのではないだろうか?もし合鍵を持っていたとしたら当然鍵を変えるだろうし、用心もするだろう)



主人公の「自分の特殊な状況を誰かに理解してほしい」という心情は理解できるが、それを打ち明ける相手にあれを選ぶだろうか?

あの子が何故ああなのかは後に説明されるが、その前の段階で家に上げたり、心を開く理由が全く分からない。



不倫相手も同様だ。何故?
(配役が逆なら、まだ分からなくもないが)



実の母親も、あまりにも人間的に幼稚過ぎないだろうか?

ようやく帰ってきた子供に、あんな態度を取るだろうか?

(誘拐犯の女をシングルマザー(善)に見せ掛ける為だけに、酷い母親(悪)を演じさせられている様にしか感じない)







この作品に無理矢理 教訓的なものを見出すとするなら、

『例え誰からも愛されていなかったとしても

(おそらく作者的には「誰からも愛されていないと思っていたが、実は愛されていたと気付く事で自分の子供に対する愛情が生み出された」としたかったのだろうが、それは誘拐犯の女が子供を返さない(帰さない)段階で破綻してしまっている)

、自分が誰かを(または自分自身を)愛する事から逃げる理由にはならない』

という事だろう。


結果的に映画の主人公は勘違いとは言え、

(無理矢理ハッピーエンドにしようとした結果)

正解に辿り着けた事になる。



この映画の監督(原作者も?)は、何故か

「人間は、誰かから愛される事で、誰かを愛する事が出来る様になる」

と思い込んでいるが、

誰かを愛する条件に、誰かから愛される必要など無い。





例えば、親(保護者)から愛情を持って育てられた幸せな子供が居る。

しかしその「愛情」は、その親がその子供を育てる場合においての正解に過ぎず、

その子供が自分の子供または誰かを愛する時の正解となるとは限らない。


そもそも愛情とは、その対象に特別な思考・判断を求められるから、人間は「それ」を愛情と呼ぶのではないだろうか。

人真似の愛情は、大抵の場合「自己満足」と認識・評価されるだろう。


「料理は愛情」という言葉もある。

大抵の場合、愛情があれば多少手を抜いても許されるだろう という言い訳に用いられる。

本来は、食べさせる相手の為に労力を惜しまない状態の事であり、手抜きとは真逆だ。

これは、料理に限らず「全ての人間関係」に当てはまる言葉でもある。(人間以外でも同じ)
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