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03 11
2010

書評 経済

コンテンツの無料経済と「なにに対してお金を支払うのか」



 ネットのコンテンツがどんどん無料になっていて、コンテンツでは食っていけない未来がやってくるのだろうか。これまでなりたってきた本、マンガ、雑誌、新聞、音楽、テレビ、映画、ドラマといったコンテンツはそれ自体で儲けることができなくなるのだろうか。情報や知識といったものにお金は支払われなくなるのだろうか。クリス・アンダーソンの無料肯定論の『フリー』を読んで頭が発酵してしまったので、頭を整理したい。

 フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略

 そもそもコンテンツで稼げたのは、情報を発信したり、送り届ける方法や手段が限定されていたからだ。本は書籍という形態を必要としたし、音楽はCDというパッケージ、新聞は紙面と宅配制度、テレビは放送電波というシステム、映画は映画館という限定された空間によって、それらが得られる方法や手段が限定されていて、それに対してお金を支払わなければコンテンツを得られなかった。物理的限定が問題なくお金の支払いをよういにしていた。

 ネットの登場により、それらの物理的制限はとっぱらわれた。パッケージや印刷、配送、書店やCDショップといった売り場、テレビ受像機、ラジカセといったものが必要なしにパソコンのネットで配信、視聴、コピーできるようになった。コンテンツはいちど「物体」のパッケージをまとい、それによって金の支払いがとどこおりなくおこなわれていたのだが、ネットによりいっきにその壁がとりのぞかれた。壁やドアがあったから料金を徴収できたのだが、素通りになってしまって、さあたいへんというわけだ。駅の改札口、映画館の切符受け取り口がなくなってしまった。ベルリンの壁、38度線の壁がなくなってしまって、人が自由にばらばらになだれこんでしまった。

 コンテンツの物体や壁の制限がなくなり、丸裸になってしまったというわけだ。そもそも本というのは人が話したり、多くの人に話したりすることがらを紙やインクによって物体として保存したものだ。人は場所と時間に限定される生き物なので、遠くの人や時間がへだたった人にその話言葉を送り届けられなかったのだが、書物がその限定を解除した。つまりは本というのは人の話のことである。ふつう人が話していて、お金をとられることはない。講演会や講義など有名人や偉い人の話しかお金をとられることはない。

 音楽はそもそもストリート・ミュージシャンのように道端や人がたくさんいるところで演奏されていたものだ。通りや往来の限定されない空間で音楽を聴いてもお金をとられることはない。それがいい曲や演奏のうまい人が限定されて、たとえば王や貴族の前で演奏されてお金がとられるようになり、酒場や演奏場の空間に限定されるようになってお金が課金されるようになった。音楽は空間の限定によってお金を得ていたのだが、レコードの出現により、この物体の製造や配送にお金を支払うことになったのだ。

 そもそもコンテンツとは物体や空間の限定がないところでおこなわれていたものだ。そこにお金を支払うクッションなどとうぜんありえない。ネットの登場はふたたびわれわれをだだっ広い、なんの障壁もない空間に放り出してしまったのだ。原点に戻ってしまったのだ。情報の発信、コピーがほぼ無料でできるようになってしまって、制限による課金ができなくなってしまった。ふたたび街頭の演説家やミュージシャンに、プロの書き手や演奏家をもどしてしまったのだ。

 ラジオやテレビの出現はそれと似た事態だったのだろう。放送や電波は空間や物体で区切ることはできない。どこでお金が支払われるのか。わたしにはこれがふしぎでならないのだが、人がたくさん集まるところに自社の商品やサービスを知らせたい人がそのコンテンツにお金を払って人の視聴代を肩代わりした。みなさんにコンテンツを楽しんでもらいます、ただしわたしどもの商品・サービスもいっしょに見て買ってくださいということだ。人の集まりを利用したのだ。楽しい催しをおこないます、無料で参加して楽しんでもらえます、それはわたしたちの商品やサービスの広報と宣伝によってですよということだ。それほどまでに商品やサービスは人に知られる機会がないということだ。このシステムがわたしにはいまだに不思議でならないし、なにか理解できないものがある。

 無料がひろがるにつれ、わたしたちはなにに対してお金を支払ってきたのかという問いにひきもどされる。なにに金を支払い、なにに支払わなかったのか。あるいはだれがだ。ラジオやテレビは企業のスポンサーが払い、雑誌はスポンサーと購読者、新聞も同じ仕組み、本は購読者のみ、レコードやCDは視聴者、けれどラジオで音楽を聞く分はスポンサーが支払った。

 本やレコードのパッケージされるものは購買者のみが支払ったが、ラジオやテレビは電波という限定されないもので視聴することではなくて、注目や集まりに対してスポンサーが金を払った。コンテンツに払うものと、注目や集まりに払うものと分かれたのだ。ネットはコンテンツに払われるべきか、注目や集まりを利用した広告に払われるべきか。ネットは空間や物体の限定がなく、電波放送に似ているのでスポンサーよりになるだろうか。ネットはこれまでパッケージで売られていたものを電波放送のように溶かしてしまったので、パッケージで売っていたものはたいへんだ。パッケージが消えてしまうのだ。

 無料経済はまたわれわれにお金を支払うことはどういうことかという問いもつきつける。われわれはなぜ金を支払ってきたのか。コンテンツがパッケージでは支払われ、電波放送では支払われないとすると、わたしたちはなにに金を支払ってきたのか。コンテンツに対してではなかったのか。放送が見せたものは、たとえば本に支払うのは紙や装丁、印刷、配送や店舗販売に支払ってきたということになる。つまりはパッケージ製造と発送、販売にかかるコストに金を支払ってきたのだ。

 コンテンツを創作する努力や苦悩、時間といったものにはあまり支払われなかった。わたしたちとしては製作者を報いる気持ちでコンテンツを買ってきた気持ちでいるのにあまりそれについて払っていたわけではないことがわかる。ラジオやテレビで注目や集まりを得られることにスポンサーは金を支払っていた。かならずしもコンテンツのよさや完成度といったものではなかった。つまりコンテンツというのはコンテンツではなくて、モノや空間に支払ってきたのだ。ネットで課金されなくなるというものだ。

 あまり長く考えすぎるととりとめがなくなってしまう。フリーについてほんと考えることがいっぱいあり、あれもこれも考えなければならなくなるから、ここらで区切ろう。無料経済というのは貨幣経済やビジネスだけではない人間の社会についての考察を迫るし、貨幣以外の注目や評判をほしがる人間は貨幣経済で食っていけないのか、人間の関係というのは貨幣経済以外で食糧や物質の交換をできないのかといろいろ疑問が思い浮かぶが、ブログの一記事に際限のない考察は要求されていないだろう。もっと頭でまとめて書くことにしよう。

 あと一点つけくわえたいが、お金というものはお金を支払わないものには得られないというしくみがあり、ほんらい情報や知識といったものはおおくの人に知ってもらいたいという目的があるのに、お金という交換の仕組みで情報を広めようとしてきたから、これまで情報や知識というのはお金のないものには排除されてきた。お金は壁や障壁の役割をしてきたのだ。ほんらい情報や知識はおおくの人に知ってもらいたいという性質があったはずだ。お金の交換手段は人々を遮断してきたのだ。情報をお金で広めるという方法は情報の性質とそぐわなかったのではないのか。ネットの無料化はそのような制限を排除するものである。フリーはより情報の性質に合ったしくみだといえるだろう。


▼こっち方面で考えたい気もするのだが、ない頭をふれないというやつだ。つまり貨幣以外の人類の交換手段についてだ。
情報の文明学 (中公文庫)ギフト―エロスの交易贈与論 (ちくま学芸文庫)

交易する人間(ホモ・コムニカンス) (講談社選書メチエ)新版 相互扶助論ボランタリー経済の誕生―自発する経済とコミュニティ

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Comment

そうですか?

>フリーはより情報の性質に合ったしくみだといえるだろう。


そうですかねえ……。

はい、わかりました。

考えるための...

コンテンツと課金、大きなテーマだと思います。今朝も目が覚めて、自然とこのことを考えていました。この記事を読んで、うえしんさんに同感です。
それに、加えるならば、ネットのコンテンツに比して、新聞・ラジオ・テレビは、今や程度が低すぎます。講演会の類も、それは、馬鹿馬鹿しいに近いものです。子供から見た、大人の説教というのも、どんどんアホらしく思えるようになるでしょう。ネットの時代の知識の、速度と量は、革命的に圧倒的です。
上の記事で、触れておられませんが、マスコミの次に崩壊してゆくのは「象牙の塔」いわゆる大学教育ではないかと、思います。昔は大学と言う「限定された空間」に知の集積と、その収集方法が蓋をされて存在していたので、知的満足を得るだけのためにも、その場にお金と時間をかけて、出会いを求めて出かけなければならなかった。今は世界中の研究に無料でアプローチできます。世界中の、決して見ることの出来なかった、講演Filmや研究発表、資料等など、驚くばかり入手できます。行く末にどんな結果が待っているか、容易に想像できると思います。マスコミだけでなく、大学も、その性格や存在理由を変えない限り、生き残りは困難になるでしょう。
どう変身し生き残るかは、推測できませんが、「将来の生活の安定」と「専門的な知の獲得」という、これまでの二大目的は明らかに分離して、前者のみが、その存在理由になるのではないかと思います。これは「知力と生活力」という、うえしんさんのもうひとつの教育テーマにも繋がってくると思います。

こんにちは。

いまおこっていることは情報の供給形式がご破算になってしまって、すべてネットにふくまれてしまったということですよね。テレビとかラジオとか新聞、本、音楽がネットで得られるものになった。情報の地ならしがおこって、すべて同じ地点からスタートすることになった。これまでのマスコミは勝者となって生き残れるのでしょうか。

大学はどうなってゆくのでしょうね。空間を仕切ることによって食ってきた産業ですね。教授が全国をとびまわって講演に出かけるのではなく、聴衆を一箇所にあつめる原始的なメディアの方式がのこったものが大学といえるでしょう。音楽でいえばCDではなくて、ライブですね。ネット時代にはいがいに空間で課金する方法はあんがい残るかもしれません。

大学というのはこれまでもかなりのところ「お飾り」であったと思います。学生を暗記知で選別する機関をになっていただけであって、そのお墨付きを社会から与えられていただけだと思います。いわば企業が年功序列によって人の評価を棚上げしてきた部分を丸投げしていただけだと思います。世間や企業がこの力をみずからとりもどさないかぎり、あんがい大学の役割は残るのかもしれません。できれば人の評価なんかしたくないものかもしれません。

ネットで知の集積がおこって、ガラパゴスのように大学の知は衰退してゆくのかもしれません。ネットのほうがすぐれたコンテンツをあつめて、テレビや新聞のように堕落してゆくのかもしれません。そのときは大学もハコモノ産業のように世間からのムダと気づかれてバッシングされるようになるかもしれません。

世間の人は「見世物小屋」を見捨てるのか、それとも豪華な建物にごまかされつづけるのか、どうなるのでしょうか。国営のものはいつも民間のものにくらべて古くさくて劣っているものです。外から評価するものの目利きにかかっているのでしょう。
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