HOME   >>  書評 哲学・現代思想  >>  一般ピープルにとってのレヴィ=ストロース、現代思想追悼記
11 06
2009

書評 哲学・現代思想

一般ピープルにとってのレヴィ=ストロース、現代思想追悼記



 フランスの思想家、文化人類学者のレヴィ=ストロースが2009年11月1日に亡くなられた。100才の大往生だった。1908年に生まれて20世紀をほぼ生きたことになる。

 levi_strauss.jpg

 レヴィ=ストロースは構造主義をうちたて、とうじ流行っていたサルトルの実存主義を批判し、現代思想の立役者となった、そうである。文化人類学が現代思想の表舞台にのりこんできたことに違和感があるが、構造主義という流れは方法論としてくくられるのだろうか。

 構造主義の思想家にはほかにミシェル・フーコー、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン、ロラン・バルトがあげられる。構造主義はなんでも無意識の構造に人間は支配されているということで、意識されない無意識のシステムを暴くことに知的興奮があった。ミシェル・フーコーなんて監獄や権力、狂気、性などの不穏な無意識の歴史を暴き立てて、不気味な知的興奮をさそったものである。アルチュセールも国家のイデオロギー構造を暴いた。

 日本では80年代に浅田彰が『構造と力』というフランス思想紹介本を書き、10万部のベストセラーになり、ニューアカデミズム・ブームというのがおこったそうだ。栗本慎一郎、中沢新一、上野千鶴子、丸山圭三郎、山口昌男、今村仁司などが踊った。もうポスト構造主義とよばれていて、ドゥルーズやデリダもセットでついてきていた。

 私は90年代からひそかにこのブームに遅れて乗った。フランスの現代思想家がカッコよくて、なにか深遠な知を垣間見せてくれそうな、知の極限を見せてくれるようで、紹介本を片手にかたっぱしから思想家の書物をあさったものである。思想家の名前から入り、大家であるとか、権威であるとか、評価が高いといった思想家を自分の興味とかさなる部分から読んでいった。現代思想家にあこがれて、深遠な思想にめぐりあいたいという強い吸引力、情熱につきうごされたものだった。

 こんにち思想がおおくの人に読まれるということはないし、世間の話題になるということもない。むかしはマルクスやサルトル、カミュなどが流行り、学生のあいだでは読んでいないことが恥ずかしいというときがあったそうだが、いまはそういう教養の強迫観念は絶滅した。マンガを読んでいればOKだし、ミュージシャンや映画を知っていればじゅうぶんだ。

 思想なんか読んでいて友だちと話ができるわけでもないし、同好の友や仲間ができるわけでもない。現代思想なんてまったく孤立無援の嗜癖であって、読んでいなくても知らなくてもまったく問題がない。精神世界のブームもあったのだが、オウム真理教の無差別テロへと帰結していった。心理学のブームがあったが、自己責任、個人攻撃化の風潮をつくり、犯罪少年を躍らせて終焉したという感じだ。知識とはひねくれて終わるものだろうか。

 現代思想の知の情熱に駆られて、何冊もの難解な思想書を読んできたのだが、一般ピープルにとって思想ってなんの意味があったのかと思う。知的興奮は得られるのだが、それでメシが食えるというわけでもないし、人生訓とか思想はもう教えてくれないわけだから賢明な人間になれるというわけでもないし、友や仲間ができたり、ほかの人との話題で語れるものでもない。なんだか知の情熱だけが天空に跳んでしまって、地上ではなんの役にもたたないといった感じだ。ただひとりだけ極上のワインをあじわっても、そこは北極のだれもいない地であったというオチがつきそうだ。知の情熱は足がつかない空回りだけしているという感じがする。

 思想および学問というものは、ほんらいはこの世界や人間を知り、見極めるという自然な探究心から発するものである。人間はこの世界に生まれてこの世界とは何なのだろうという好奇心につきうごかされて生きるものである。学問というのは素朴な疑問が出発点で、子ども心に発した疑問の延長上にあるものである。だれもが抱く探究心というものである。

 日本では学問が学校によって何年も教えられる高学歴社会なわけだが、おかげで学問は「他人事」になってしまう。言葉はただの「記号」になり、探究心が学問と切り離され、人の好奇心は映画やマンガ、ゲームなどにふりむけられる。学問というのは他人が持っていて、他人が教えてくれるもので、必要になればどこかで買えばいいという、自分でするものでなくなった。自分で探したり、答えを見つけようしないから楽しい娯楽でなくなったのである。学校というのは学問を外で買う買い物にしてしまったために学問を殺してしまったというのは皮肉なものだ。

 レヴィ=ストロースの追悼を書こうと思ったのだが、私にとっての現代思想の意味を考えるという文になってしまった。まあ、私は現代思想はいくらか読んできたのだが、レヴィ=ストロースはとうとう一冊も読まずじまいだ。構造主義の中心にいるといっても文化人類学で、親族の婚姻構造やパンセ・ソバージュ(野生の思考)、神話論理といったものはなかなか興味をもてるというものでもない。

 おまけに出版もとのみすず書房は三千、四千と高い本がおおいので、おいそれと興味がかさならない本を読むというわけにもいかない。未開民族のフィールドワークに興味をもてるだろうか、西洋中心主義あるいは西洋優越主義というもんだいに未開民族の優越性を対置したといわれているが、そういう本はエドワード・サイードや文明の使命というイデオロギーの研究のほうが得るものがあったように思う。レヴィ=ストロースの文化人類学は現代思想の中心の問題なのかという疑念のほうが強かったということだ。

 構造主義やポスト構造主義の思想家の大物はほとんどこの世からいなくなってしまった。ドゥルーズはアパルトマンから飛び降り、デリダも亡くなり、フーコーも早くに亡くなっており、ニューアカの思想家はぜんぶ地上から姿を消して、歴史上の存在となってしまった。フッサールとかハイデガーはすでにそういう歴史上の存在になってしまっていたわけだが、これから構造主義者も歴史上の存在としてどのような変容をとげてゆくのだろうか。かれらはデカルトやカント、ヘーゲル、マルクスと連なる存在になってゆくのか、それとも忘れられた思想家としてこの世から消えてゆく運命になるのか、それは歴史が決めてゆくことだろう。


レヴィ=ストロースの著作
悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)レヴィ=ストロース講義 (平凡社ライブラリー)野生の思考

神話と意味 (みすずライブラリー)パロール・ドネ (講談社選書メチエ)レヴィ=ストロースの庭

生のものと火を通したもの (神話論理 1)構造人類学構造・神話・労働 (新装版)―クロード・レヴィ=ストロース日本講演集

親族の基本構造今日のトーテミスム (みすずライブラリー)

関連記事
Comment

ストロースの思い出

ストロースさん、お亡くなりになりましたね。
もうすぐ101歳になるところで。
「未開」社会の神話の中に構造を読む、「熱い」社会と「冷たい」社会、アート論としての「ブリコラーシュ」、「野生の思考」はフランス語では野生のパンジーの意味にもとれること・・・。
電話帳を引いた人からジーンズ・メーカーと間違って電話がかかってきたり、
新ブランドのデニムのズボンを売り出さないかとのお誘いもあったとか。(笑)

7~80年代には構造主義ブームでしたが、かたやストロースは構造と構造主義は別だと言っています。

80年代にわたしもモラトリアム期のひまつぶし(それは贅沢であって決して自己卑下ではありません)のように、みすずからでている「野生の思考」を読みました。
粗雑な読書でしたが、「野生・未開だからってバカにしたらダメだな」「決定的な文明と未開の境目なんて、ないのかもしれない。それはあくまでも恣意的・暫定的な区分けだ。」
くらいのことは理解できたものです。
それは、不登校差別に対抗する勇気と柔軟な思考をわたしに与えてくれました。

故人の冥福を祈ります。

 私が思うに、現代思想も含めた哲学は、「リベラル アーツ」の一つで、
労働をしなくてもよい有産階級の学問なのではないでしょうか。

 だから、自分の労働市場における価値とは、対極に位置するのでしょう。

 でも、現代思想を嗜んで、知的好奇心を満たすことができたなら、それはそれでいいのだと思います。

ワタリさん、こんにちわ。

なるほど、レヴィ=ストロースの未開思考の研究を不登校差別の抵抗の参考にしたんですね。現代思想の利用価値があるというものですね。

下流社会や非正規の格差問題にも応用できる考え方かもしれませんね。社会は格差問題の社会的癒しの方法をもっていませんから、レヴィ=ストロースの思考法は参考になるかもしれませんね。

レヴィ=ストロースは西洋優越感の鼻をへし折ったのですが、西洋は先進意識や高度知識の高慢さ、放漫さというものを何百年も反省できませんでした。そのおごりは、黒人やインディアン、アジアの侵略や虐殺、植民地支配へとつらなっていきました。文明国のおごりはそのままだれにでもある優越感のあやまちにつながるものだと思います。戒めたいものだと思います。

優劣意識、序列、位階秩序、勝ち負け、ヒエラルキー、こういったものを無化する思考法をレヴィ=ストロースから学べるのなら、現代思想の利用価値もあるというものですね。

ももすけさん、こんにちわ。

たしかに現代思想は有産階級の贅沢品であって、労働者階級の者が手を出しても一銭にもなりませんし、高級ホテルに泊まったり、料亭で贅沢するようなものかもしれませんね。

高尚な芸術というのも実用的でないもの、お金にならないものに向かえば向かうほど価値があるといいわれますね。お金がありあまる有産階級の証明というわけですね。

一般ピープルが手を出しても贅沢貧乏になるというものですね。高尚な知識にはまった労働者はお金をかせぐ実用的な知識を軽蔑してますます労働価値が落ちてしまうという悲劇(喜劇?)になってしまいますね。

高尚で金にならない無益な知識も、どこかで有益で実用的な知識につながっていってほしいものです。
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top