|
|
このところ名著シリーズで本を紹介してきましたが、私にとって現代社会論の名著の名ガイドブックとなったこの本を紹介しないわけにはいきません。私はこの本によってさまざまな社会論の名著とよばれる本を読んでゆきました。
60冊の書物による現代社会論―五つの思想の系譜 (中公新書) 奥井智之

名著読みというのは私は好きです。名著とよばれる本は一定の評価や賞賛があったと思われる本なので読んでいて損はないと思います。時代を変えたり、世界の見方を変えた本を読まないわけにはいきません。このガイドブックは90年に出版されましたからいささか古くさい本がないわけではありませんが、私はこの中から興味のありそうな本を手当たり次第に読んで、社会論に開眼しました。
十年や二十年近く前に読んでほとんど覚えていない本ばかりになりましたが、よいガイドブックというのはつぎつぎと読みたい本を教えてくれる貴重なものだと思います。そういうよいガイドブックに出会えればいいですね。



コンラッドの『闇の奥』は小説ですが、私はなにをいっているのかわかりませんでした(笑)。ホブソンの『帝国主義論』はなんらかの理由で読みたいと思った一時期がありましたが、入手困難でした。



ここらへんは帝国主義論の一章として紹介されている本ですが、私は帝国主義論というものにはあまり興味を魅かれませんでした。



レヴィ=ストロースの『野生の思考』は帝国主義論の一冊として紹介されていましたが、なんででしょう? レヴィ=ストロースは一冊も読まずじまいですね。
ラテンアメリカにおける資本主義と低開発 フランク

ウォーラステインの『近代世界システム』は読みました。なんだか近代ヨーロッパの経済方面の歴史を読んだだけという気がしましたが。




ここからは大衆社会論の本になりますが、私は大衆社会論には興味をもちました。サマセット・モームの『月と六ペンス』はゴーギャンをモデルに芸術家と大衆の凡庸さの対比を描いて、見事でしたね。オルテガの『大衆の反逆』も小気味よい大衆批判でした。フロムの『自由からの逃走』は社会心理のバイブルになりうるような鋭い本だったと思います。




バークの『フランス革命の省察』は人間が頭で計画する社会の危険性を説いたというので読みましたが、なかなか深い読み方はできないものですね。トクヴィルの『アメリカの民主政治』は読みたいと思いつづけてきたのですが、工業化によって画一化、均質化する大衆というものを鋭くえぐりだした警世の書ということになるのでしょうね。



リースマンの『孤独な群集』はアメリカ社会の百科全書のような社会論でしたね。ハンナ・アレントの『人間の条件』は興味を魅かれたのですが、内容をかみくだけませんでした。
大衆への反逆 西部邁



デフォーの『ロビンソン・クルーソー』はここでは産業社会論として紹介されていますが、近代人の祖形であるということですね。ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はたいして重要な本とは思いませんが。禁欲的な勤労倫理が資本主義を生み出したというよりか、ゾンバルトのいうように奢侈と消費が資本主義を生み出したと考えるほうが妥当だと思いますが。
経済成長の諸段 ロストウ




ガルブレイスの『ゆたかな社会』は経済学書としてあつかわれそうですが、飢えから解放された社会の問題を問うたのでしょうか。
イデオロギーの終焉 ベル



ダニエル・ベルの『イデオロギーの終焉』は読みたいと思いつつ読んでいないですね。豊かな社会はイデオロギーや目標を失って経済が瓦解してしまうのではないでしょうか。アルヴィン・トフラーの『未来の衝撃』や『第三の波』、『パワーシフト』は感激して読みましたね。情報社会論、そして工業社会の規格品的な生き方。われわれはトフラーの予想した時代の中を生きているのではないでしょうか。

ベルの『資本主義の文化的矛盾』は労働倫理と享楽的な消費主義の矛盾を問うたと思うのですが、私は問いの答えを本の中に見出せませんでした。ハバーマスの『晩期資本主義における正統化の問題』はむずかしすぎたと思います。
産業社会の病理 村上 泰亮



ソーローの『森の生活』における労働批判には感激しましたが、カネを稼げないことには生きていけませんね。マルクスの『経済学、哲学草稿』は労働疎外について考えられていたと思いますが、そのような問いは現代どこにいってしまったのでしょう。




ラスキン、ハックスリー、オーウェルの近未来の管理社会批判が並びますね。管理社会論ってなにが脅威なのかぼやけることがあると思うのですが、近年このような問いかけはなされているのでしょうか。



ハイエクの『隷従への道』は新自由主義の源流として近年注目されてきたわけですが、新自由主義は早々と格差や貧困など負の側面を露出しすぎましたね。イリイチの『脱学校の社会』はいまでもとても重要な本だと思います。学校化され、専門化されることによる個人の貧困は生のありようを変質させてしまったと思います。




ポランニーの『人間の経済』とか経済人類学の考察にはいろいろ学ぶことがまだまだあると思うのですが、こんにちの自由主義と貨幣経済とか問い直してほしいですね。




デュルケームの『社会分業論』はもう一度読み直したい気もするのですが、分業社会の中でわれわれはますます孤立して、分断されている危機を考えてみたいです。ヴェブレンの『有閑階級の理論』は消費社会論においてとても重要だと思うのですが、われわれは消費して優劣を競ってだからなんなのかという懐疑がもたげて仕方がないです。柳田国男の『明治大正史』はいろいろな方面から読み返したくなるのですが、問いの答えがその本の中にあるのかどうか。




消費社会論の一冊としてホイジンガとカイヨワの遊び論がとりあげられていますね。バタイユの『呪われた部分』は栗本慎一郎経由ですが、労働してブッ壊す快楽が勤勉倫理のもとにあるという説は刺激的でしたね。
何のための豊かさ リースマン


リースマンの『何のための豊かさ』という問いはいまでも問いかけたいタイトルですね。しかしカネを稼いで食うためには働かなければならない、そして無益なサービスや商品をつくりつづけなければならないというループする疑問に答えは見出せるのでしょうか。ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』は記号論的消費を解読していまでも重要な本だと思いますが、私たちはこんな無益な競争からいつまでも抜け出せないのでしょうか。
柔らかい個人主義の誕生 山崎正和

いまの社会論はどのようなことが主題になってきているのでしょうか。やっぱり消費社会論や管理社会論なのでしょうか。消費社会論はバブル崩壊以後、まったく魅力や意味を失ったように感じられましたが。
こんにち問題とされていることはなんなのでしょうね。私は労働や雇用であるとか、お金をどうやって回すかということが重要になってきていると思うのですが、豊かな先進社会というのは欲望や充足の欠如を煽らないとお金が回らないわけですから、もし欲望の衰退や欠如の消滅といった事態がおこれば社会はどうやってお金を回す方法を見つけたらいいのかという問題を考えなければならないのではないかと思います。
先進社会は欠如からの解放という夢につき進んできたわけですが、それがある程度果たせてしまうとお金の循環がとどこおり、貧困を生み出してしまうというパラドクスを生み出してしまったのだと思います。欠如なき社会ではどうやったらお金を回すことができるのか、それがひじょうに重要な問いになったのだと思います。
お金はどうやって回すか、無益な欲望や欠如を煽らないでお金を循環させるシステムはないのか、貨幣の循環システムを根本から問いなおす時期にきているのではないかと私は思います。社会論の問いではないかもしれませんが。