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02 26
2009

書評 経済

『経済成長は、もういらない』 佐藤 典司


経済成長は、もういらない ゼロ成長でも幸せな国経済成長は、もういらない ゼロ成長でも幸せな国
(2006/08/26)
佐藤 典司

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 私もずっと経済至上主義はどうにかならないかと思ってきたが、いまはこの手の本は夢うつつに思えてあまり信用できない。では、どうやってメシを食うのかという基本的なことを解決しないとなにもいってほしくないと思う。経済成長がなくてもみんながメシが食える社会についてまず考えてもらいたいと思う。現実的な生活を抜きに理想を語られても意味はないと思う。

 もちろん私だってこの経済至上主義の世の中はどうにかならないかと思う。この書はあまりにも現実的な生活やカネに傾きがちだった私にいっときの憧憬を思い出させてくれる。むかし強く思っていたが、カネや生活のために忘れがちになってきていたかつての理想を思い出させてくれた。

「日本人には、生活がありません」

「日本企業は人間を物やサービスを受ける消費者、言い換えるとマーケットとしか見なかった。これが問題だった。人間の中の消費の部分は、せいぜい生活の中の一割か二割か占めるに過ぎず、あとはカラオケを歌う。恋愛をする。世界のことを考える。子供や草木に愛情を注ぐ……」(堤清ニ)

「2003年のわが国の全世帯平均所得579万円は、……世界の人々の所得順位上位1%に入る金額とされる。つまり、世界を見渡せば、99%の人たちが、私たち日本人より貧しいのだ」

「東京では、曖昧に会社員だったり、OLだったり、自由業だったりするが、パリでは、誰もが、まず人間に還元される。……東京では職業が歩いているが、パリでは人間が歩いている」(辻邦生)

「百円ショップにかぎらず、わが国で一番高いものは人件費だから、ここをどう抑えるかが、あらゆる企業競争のカギを握る。つまり、製品がタダに近づくとは、人件費をタダに近づけることにほかならない。
……人間がタダに近づいている、そう直感した」

「低収入のために、家庭ももてない、その結果、子どももつくれない社会。まさかこんな日本になろうとは、誰が想像しただろう」

「最近の若者は、ひ弱でしょうがないなどと嘆いている大人は、実態を知らないのである。自分の息子や娘が、毎日、ボロ布のように使われて初めて気づく。職があるだけ幸せという生やさしい状況ではない。まさに命あってのものだね、という状況にまで現実は切迫しているのだ」

「次の問題は、これから私たちが目指すべき価値とは何かということになるのだが……。それはこれまでのわが国の経済一辺倒の枠組みからは、とくに見過ごされてきたもの、またそうした枠組みの中では、どうしても実現できなかったものである。言い換えれば、それらはまさに、これまでの経済成長至上主義が打ち捨ててきたものとも言ってよい。経済成長と私たちが引き換えにしてきた価値、それこそが、私たちがこれからまっすぐ向かう山の頂のはずである」

「そもそもお金で買うことのできないものについては、私たちはまず比較しようとする気さえ起こさない。お父さんとお母さんは、どちらが価値があるのか、春と秋はどちらがよい季節なのか、台風の大水と地震はどちらが怖いかとか、これらはどこの店でも売っていないから、比較のしようがない。何でも比較可能な状況にしてくれるお金は、今日の楽しみを明日に先延ばしする魔法の杖を私たちに与えてくれた。ただ、それゆえに、取り返しのつかない今を、私たちは将来と交換している」

「GDP(国内総生産)とは、その年の日本国内で生産された新たなモノやサービスの価値を足し上げたものだ。だから、前の年に立てた家や、今でも街を走っている何年か前に生産されたクルマの価値はそこに含まれない。まして、明治時代の建物や、博物館に納まっている中世の美術品、千年を超える屋久島の原生林の価値などが、毎年のGDPに換算されることはない。
これを数学的に言えば、GDPとは、大昔から続いている一国の経済活動を、わずか一年きりの、その瞬間、瞬間だけほとらえようとする「微分的」考え方から成立していると言ってよい」

 日本はずっと経済成長主義一辺倒でやってきたわけだが、どうしてそのほかの価値や意味が切り捨てられてきたのだろう。食うために切り捨てざるを得なかったし、また食うために眼中からなくしてしまったのだろう。しまいには経済一辺倒でほかの価値を削ぎ落としてきて、また食えなくなる時代を迎えつつあるからよけいに悲惨である。経済以外の価値観をとりもどすことが必要である。

 いっていることはもっともなことであり、共感はする。だけどそれではメシが食えないのである。さいしょの問題に逆戻りである。だからほかの人間的な価値観をのこしつつ、どうやってみんながメシを食える社会にしてゆくのかと問われなければならないのだろう。ただ経済成長をやめようとだけいっても、絵空事やたわけにしか聞こえない。


「ゼロ成長」幸福論 (角川oneテーマ21)経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか (平凡社ライブラリー)お金持ちより時間持ち―モノ持ちよりもココロ持ち (ワニの選書)経済成長神話からの脱却

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Comment

こんにちは。
本書を読まずしてコメントすることをお許しください。

本書が経済成長をどのように規定しているかわかりませんが、日本は“資本”主義なのですから、余剰価値を生産しなければならないことは、当然です。なのでゼロ成長はすなわち収縮ですし、経済成長を拒否するというのなら、行き着く先は衰退あるいは資本主義からの離脱しかないのではないでしょうか。
そして経済成長否定系の方々が、大概この事実は隠す?ところに胡散臭さを感じてしまうのです。「自分で食うものくらい自分で作れ!」と言われたら説得力があるのですけどね(笑

個人的には(可能なら)緩やかな収縮しか、ベターな道はないのではないかと思いますが。。

bookreader改め 阿呆船さん、こんにちは。

メシは食わなければなりませんが、経済成長や物質主義というのはどうも人間ほんらいの幸福をめざす方向に導いてくれるわけではないという矛盾はつねに感じることですね。

お金は回さなければならないけど、もっとなにかモノを買ったり、景気のために使えといっても、ほしいモノもない。難しいところですね。しまいにはモノの値段はどんどん落ちるし、経済が成長しないから社員の給料は落ちる、ついにはクビ切りや雇用が失われるという悪循環に陥りますね。

経済至上主義というのはどうもおかしい。どうしてスペインであるとか、ヨーロッパのようにゆとりをもった人間らしい社会が築けないのか。

みんながメシを食えて、成長主義にがつがつしない社会というものを築けるのなら理想なのでしょうが、成長主義がなくなっていったらみんなのメシが食えなくなりますね。しかし成長主義への期待はわれわれの社会からどんどん失われている気がしますので、そういう低成長のなかでどうやってカネの分担をおこなうかということが重要になってくるのでしょうね。低成長の時代には市場主義より、福祉の分担がより重要なのでしょうね。

何よりも優先されるのは「経済」ではなくて、「人間の幸福」です。
経済的に豊か なのは幸福の一部かもしれませんが、そのための犠牲が多ければ、それは不幸です。

日本のような経済優先社会は、企業を重視し、人間を軽視します。

ヨーロッパのどこかの国もしくはヨーロッパ各国(イギリスだったか、フランスだったか・・)は、最低賃金が1000円とか1200円だったと思います。

そして、「その賃金を払えない企業は市場から退出してもらう。」
というのが基本的な考えです。

つまりまず労働者(人間)が重視されるのです。

日本は企業を重視して人間を軽視します。
(最低賃金は600円台)

富の再分配が偏っていることも問題。
企業内に溜め込まれている(内部留保)のです。
また本来労働者が貰う富を、派遣会社が得ていたり。

動物も人間も生きていく原点は食うこと。
それさえ出来れば生きていける。
野生の動物は食べるためだけに動く。
あとは寝ているか、のんびりしているだけです。

人間はそこまでは戻れないかもしれませんが、
その原点は忘れないようにしていですね。

豊な生活は、自由な時間を奪う。
うえしんさんが 何度も言って来たことですが、

古畑さん、こんにちは。

日本の企業の人間軽視はどんどんひどさを増していますね。

こないだニュースでとりあげられていたのですが、とある居酒屋チェーンは80時間残業をしないと基本給20万が支給されないということです。はじめから過労死レベルの残業をしないと基本給に達しないという給与体系がまかりとおっているのが日本というものです。ファミレスチェーンとかコンビニチェーンとかも似たようなものかもしれません。

企業だけが生き残る体勢を容認してきて、人間がどうなろうと知ったことではない。そういう体制が右肩下がり経済のなかでますますその非人間性を増しているように思われます。

過労死人生か、ワーキングプア人生かのどちらかを選べといっているかのようですね。

なぜ日本はこうなったのか。企業より力をもった政府であるとか、社会であるとか、なんらかの宗教団体のような、企業に拮抗する勢力が社会に生まれなかったことがその一因だと思います。こういう社会勢力をつくってゆくことがこれからの政治に求められるのではないかと思います。

うえしん様 古畑様 同感です。

「もし富と人口との無制限な増加のために地球がその楽しさの大部分を失ってしまわなければならないとすれば、しかもその目的がただたんに地球をしてより大なる人口―-しかし決してより優れた、あるいはより幸福でない―を養うことを得せしめることだけだとすれば、私は後世の人々のために切望する、彼らが必要に迫られて停止状態に入るはるか以前に、自らすすんで停止状態に入ることを。」「資本及び人口の停止状態なるものが、必ずしも人間的進歩の停止を意味するものではないということ、はほとんど改めて言う必要はなかろう。停止状態においても、あらゆる種類の精神的文化や道徳的、社会的進歩の余地のあることは従来と変わることなくまた「生活の技術」を改善する余地のあることも従来と変わることはあるまい。そして技術改善の可能性は、人間の心が立身栄達の術のために奪われることをやめるためにはるかに大きくなるであろう」。この文章は、J.Sミルが19世紀の半ば「経済学原理」で主張していたものだと、岩波新書「J.Sミルと現代」に杉原四郎氏が紹介しています。また「人間の心が金銭の獲得や立身の方策のために奪われることがなくなるので、精神的文化的側面ではむしろいっそうの進歩が実現する。つまり経済的進歩ではなくて人間的な進歩がはじめて可能になる」というのがミルの主張だと解説されています。「自らすすんで停止状態に入る」ギリギリの時代に私たちは、入ってのではないでしょうか。

河原の枯れすすきさん、こんにちは。

私はJ.S.ミルの『自由論』のファンでして、ミルの翻訳文体はこのような難渋なものであったのを思い出します。

しかしこの文章で語られていた停止状態に入った経済の人々の食い扶持を、ミルはどう考えていたのか疑問がのこります。お金が回らなくてメシが食えなくなったら、どのような精神的向上がのぞめるのか不思議に思います。

貨幣経済のほかになにか食糧や生産物を回すしくみをつくれるのか、それらが停止したら人はどうやってメシを食えばいいのか、そのへんをミルはどのように考えていたのでしょうか。

この人間の生産物の流通を可能にするしくみを提案しないかぎり、精神的向上をのぞむのはすこし難しいのではないかと思うのですが。貨幣経済のオルタナティヴが考えられればいいのですが。
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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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