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02 16
2009

セラピー・自己啓発

「肉体は私ではない」とはどういうことなのだろう?



 このブログの読者の中には精神世界がお嫌いな人もいると思う。私もたびたび非現実的だなとかアヤシイ、現実的な文脈で口にすべきではないとは思っているのだが、知の愛好家としては追究しなければならない課題だとは思っている。

 思考はまぼろしにすぎない、そのまぼろしに人間は苦しめられていると私は考えているし、心の癒しもこのジャンルに多くつまっていると思う。神とか宗教の信者ではないのだが、かれらの言説はほんとうなのかと追究したいと思っている。お嫌いな方にはしばしば、おいとまをいただきたいと思う。

 こんかい考えたいと思うのは、というよりかほとんど抜書きで疑問を提出するだけのかたちになるが、肉体は自己ではないという考え方である。ちかごろ自己啓発書とかセラピー書にまた帰ってきたので、ぱらぱらとアン・バンクロフトの『20世紀の神秘思想家たち』という本をめくっていたら、ラマナ・マハリシの言葉がひっかかってきた。

20世紀の神秘思想家たち20世紀の神秘思想家たち―アイデンティティの探求 (Mind books)
アン・パンクロフト
平河出版社 1984-01

by G-Tools


「肉体が自己であると思うがゆえに、世界がそれぞれ別個の自己をもつ多種多様の肉体で構成されていると思ってしまう。外見のみに注意をはらい、惑わされて、名前と形態からなる宇宙に思考を支配されてしまうのである。

ヒンドゥー教は、世界を支える想像力が名前でも形態でもなく、意識そのものだと教えている。われわれひとりひとりがこの意識を体験するには、あらゆる意識の対象、つまり肉体中心の世界と自分を同一視することをやめればいいのである。

ヨーガの修行の目的は「私は自分の肉体である」という感覚に終止符を打つことである」

「「私は行った」「私は存在する」「私はする」といったように、われわれの感覚はつねに「私」という言葉を使って表現される。多くの場合このような感覚は、「私は庭の手入れをした」「私は本を読んだ」というように、肉体およびその活動に関連している。そして肉体そのものを「私」ととらえるようになり、肉体のあらゆる機能や活動と自分を同一視し、「私のもの」と呼ぶのである。しかし、「私」という感覚は、それが生じてくる器としての肉体よりずっと広大かつ深遠なものだ」

「肉体とその機能は「私」ではない。より深いところでも、心とその機能は「私」ではない」

「心が「私」でないならば、「私」とはいったい何であろう? ……よく観察すれば、思考と感情が意志とは無関係に生じてくることがわかる。これは交感神経のはたらきと似ている。われわれが食物を消化するときには、「私」はまったく関与しない。意志の力がはたらかなくとも血液は循環する。それと同様に、心と記憶は「私」という感覚とはほとんど無関係に、自然な自主性をもっているようである」

「外に目を向けて、自分とは異なったものを見ることに慣れてしまっている。その結果、見ている人、見ている対象、見る行為がすべて同じひとつの意識の顕われであることを信じることができない」

「行為者としての自己がないという感覚は、みごとな解放感をもたらしてくれる。不必要な重荷を捨て去った感覚だ。潮には干潮があり、風は吹く。だがその原因は私ではない。それと同様に足は運ばれ、本は読まれる。しかし、そこには自己は関係していない」

「いまあなたは自分を独立した個人だと思っている。自分の外には宇宙があり、宇宙の彼方には神がいる。しかし、そこには分離という観念がある。この観念を消し去らなければならない。神はあなたや宇宙と分離してはいないからだ」

「「私」という思考が生じて、初めて心のなかに「あなた」や「彼」や「それ」という思考が入ってくる。それらは「私」という最初の思考がなければ存在しえない。……だから、「私は誰か?」という問いをとおしてその源を探れば、心は静まるのである」


 肉体が私ではないというのはどういうことなのだろう? 通常、私たちは肉体が「私」だと思っているし、さらには思考だけが「自分」だと思っている。肉体は忘れられていることが多い。

 分離の観念も重要である。私の肉体の外に世界が広がっているととうぜんのように私たちは把握する。視界は私の目を離れて見ることができないし、私の移動につれて私の見える世界も移動する。私は肉体であり、世界は私と隔絶して存在すると思い込むのは自明の理である。どうすれば、私と世界は分離しておらず、一体であると感じることができるというのだろうか。

 ラマナ・マハリシのような神秘思想家はどうして肉体は私ではないといえるのだろうか。当たり前で自明で、疑うこともない「私=肉体」という捉え方に神秘思想家はひとつの疑問を投げかけるのである。考えてもとうてい、この自明の理である考えを転倒させるのはむずかしい。

 ラマナ・マハリシは「意志として」の私の非在を説くのだろうか。思考は勝手に考えられて、肉体は勝手に活動し、行為は勝手におこなわれる。「私」など存在しないといいたいのだろうか。

 考えてもわからない。こんかいの目的は、「肉体は私ではない」という考え方の銘記や、疑問の提出にとどめるだけでもいいだろう。こういう考えを頭の中に沈殿させるだけでも、すこしの萌芽をもたらすと考えることにしよう。いやはや、肉体が私ではないとはいったいどういうことなのだろう?


 ▼ラマナ・マハリシは一冊読んだことはあるのですが、いまいちぴんときませんでした。
ラマナ・マハリシの教え沈黙の聖者―ラマナ・マハリシ-その生涯と教え (スピリチュアルシリーズ)不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話ラマナ・マハルシの伝記―賢者の軌跡静寂の瞬間(とき)―ラマナ・マハルシとともに

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Comment

人間という存在の根源的な欲求

初めまして。思うに身体とか心とか考えるまでもなく、「私」という観念に捉われているかぎり人は幸せになれないのではないでしょうか。

なぜなら所詮、個々の人間は不完全なものに過ぎず、その幸福は集団なり組織なりといった全体との一致によって可能になるからです。
それを否定するなら個人は「私」どうしの限りない競争に終始する孤独な利己主義者たらざるをえず、行き着く先は貧しい拝金主義です。

でも資本主義社会は孤独な利己主義者、即ち勝者のものであり、競争から脱落する大多数の敗者には何ら夢も希望も与えはしない。
大多数が「私」という殻を疑うことなく生きている以上、そこはあまねく利害関係に覆われ、他人は詐取すべき道具にすぎなくなります。

となると類的存在である人間の根源的欲求、即ち共に生きる欲求は満たされない。そこに怪しげな宗教がつけいる隙もありましょうし、
昭和30年代へのノスタルジーがもて囃されるのでしょう。むしろ「私」を滅失しうる程の「大いなる存在」を持たないことが不幸なのです。

それは結局「神」なり「異性」といった存在となるのでしょう。宗教なきこの国で、得体の知れない「空気」に支配され翻弄されるままに、
全体に隷属する部品となり孤独をかこつ我らが、何を信じてどう生きれば幸福になれるのかという誰もが直面する根源的問題ですね。

東京メタボさん、はじめまして。

期せずとして「個」と「全体」という問題を提出されたのでしょうか。
社会論的にいうと、私は全体主義には危惧感を抱くほうです。

しかし資本主義の利己主義や競争的孤立主義にもかなり問題もあると思いますね。どちらに傾いても危険ですが、いまは資本主義の孤立主義のさみしい社会のほうに極端に傾いた悲しさが社会を覆っていると思います。

かといって全体主義の社会に転がり落ちる危険性はもっとはなはだしいものがあると思いますが。宗教は全体主義に加担する思想をベースにもっているがゆえに戦後にその危険性をかなり警戒されてきたと思います。

私としては「大いなる存在」に同一化するような思想は、社会や組織に適用されることはまちがいだと思っています。個人や宗教思想においては全体に同一化する思想があったとしても、それを社会には適用すべきではないと思っています。個人には個人の、社会には社会の、思想やルールが適用されるべきだと思います。

私たちは過去の過ちは忘れてはならないと思います。でもそのために利己主義のさみしい孤立主義の資本主義に傾いてしまったわけですが、極端な全体主義には警戒は忘れてはならないと思います。

marigpaさん、はじめまして。

通常の認識としては、言葉や思考によって「私とはなにか、だれか」と問うのがふつうであり、あたりまえだと思います。これを西洋的な論理主義や説明スタイルといえるかもしれませんね。言葉や思考によって物事や世界をとらえるというスタイルですね。

対して、東洋思想や精神世界などでは思考で考える私はまぼろしや悪夢にすぎない、いつわりの自分=思考を捨てなさいと説かれます。

私も後者の考え方にまったく納得するのですが、というのは、言葉や思考を「私」だと捉えると、悲しみや恐れ、不安などの悪夢にどこまでも追いやられてしまうことになります。こういう悲しみや恐れから逃れ去ろうと、思考や私、過去を捨て去る技法をためしてみると、じつに効果バツグンであることは実体験として感じてきました。これはまちがいないと思っています。

私たちはイメージや虚構でないものの不安や恐れに追い立てられているわけです。これを教えてくれるのは東洋思想や精神世界、あるいはキリスト教の神秘思想だってそういうことをいっています。

言葉や思考は「私」ではないということですね。いつわりのまぼろしに私たちは追いやられているわけです。思考や過去、言葉といったものに私を同一化させると、それらは悪夢となって私たちに襲いかかってきます。

私たちはこの悪夢から逃れるために思考を捨てる方法を会得しなければならないと思います。といっても、このジャンルは宗教や神秘思想、オカルトといったジャンルとつながって、世間一般からの承認や認知を得られないのはなぜなんでしょうか。

それほどまでに言葉や思考に同一化する心の扱い方が一般的で、あたりまえだからということになるでしょうか。心というのは他人から見えないものだから、共通性をもつことはかなり難しいものです。そういったことで、ほかの心の扱い方を知らない人は、ほかの方法をオカルトだと忌避してしまうのでしょうか。

心はほかの人と隔絶しているがゆえに未知の世界になってしまうのかもしれませんね。自分でためしてみて納得できる知恵を身につけたいものです。

大いなる全体と「全体主義」

「大いなる存在」と同一化すると言ったのは、ニーチェの「超人」思想を意識してのことです。まず権力欲を肯定するのです。そのうえで「絶対神」の存在なしに人は利己主義を克服できないのではないか、それでは幸せになれないではないか、というのが私の問題提起です。実は集団、組織という言葉はわざと使ったのです。その中で生きざるをえない現代人が善き生をまっとうするためにはどうしたらいいのか。

個人と全体は対立する概念ではないのです。心と身体も同じ、自分と他人も同様。全体があるから個人があり、他人がいるから自分があるのであって、相互に切り離すことなどできようはずもありません。そしてデカルト以来の唯我論哲学では掬いきれない、否、救いきれない現実を、宗教やオカルトが担ってきたのです。ヴィーコのレトリックや対話の知もそのあたりに棹さす試みだったと言えるでしょう。

個人と社会を分けて考えることは違います。貧富の差などに関係なく、幸福に生きたいと思う者なら避けては通れない、誰もが考えるに足るほとんど唯一の問題ではありませんか?

こんにちは。

たしかにこの様な精神世界のはなしを嫌ったり距離を置くひとがおおいのは無理もないのでしょうね?あまりにも怪しい霊能者やインチキ宗教家が巷にはびっこていますし・・・。本物と偽物を見分けるのも大変ですから。
でも色々読んだりしているうちに直観的にわかってくるような気もします。

肉体は本当の自分ではない、とは頭で理解するのではなく意識で感じる世界なのでしょうか。内に深く入っていくうちに外に抜ける、あるいは外に
広がっていくという感じで。物事に悩んだり恐れたりしているのは自我であって、本当の自分は決して恐れることはないという。この辺がもし理解できたら「大いなる存在」に近づけますね?難しいですが・・・。

東京メタボさん、こんにちは。

ちょっと議論がかみあってなくてすいません。
ちょっと面喰らってまして、こんかいの記事ではまったく社会的な面を考えようとは思ってもみなかったもので。

宗教を救いとだけ捉える見方は私には一面的に思います。
宗教の内実というのは救いではなくて、この世界の探究であると私は認識しています。

認識の前提が異なると思われますし、社会の救いについていま考えたいとも思いませんので、こんかいの話はこのへんで控えさせていただいたほうがいいかなと思うのですが。ご了承いただきたく思います。

たいようさん、こんにちは。

精神世界の話はやっぱり一呼吸置いて話さないと、足場が違いすぎますね。いきなりはまずいですね。このくらいの知識は追究しなければならないと思うのですが、けっこうこのジャンルは岸辺で一冊も読まずに判断される要素が強いのだと思います。この知識を知らずにすますにはもったいなさすぎると私は思いますが。

肉体は私ではないという考えは私にはナゾに思えて仕方がないです。思考はにせものの私だとはわかったとしても、肉体だけはどうもわかりません。感覚的にも身体の感覚を抜け出して、大いなる存在とつながるという感覚もつかめません。体験してみたいのですが、いったいどうすればそのような世界を味わえるのでしょう。内にあるのでしょうか、あるいは外に抜けることで出会えるのでしょうか。ナゾが解けるよう願いたいものです。
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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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