地方が舞台のドラマはなぜ増えたのか
田舎においてきた恋と夢と情熱。最終回に石原さとみが駅にとり残される。(『ウォーターボーイズ2』
2004年にドラマで『世界の中心で、愛をさけぶ』をみて、田舎の港町が舞台になっていたのは少々驚きであった。ロケ地は静岡県加茂郡松崎町である(ウィキペディア)。再放送でやっていた2004年の『WATER BOYS2』を見ているとこれも田舎の町が舞台である。静岡県磐田市あたりがロケ地(ウィキペディア)。医療崩壊をあつかった『Tomorrow〜陽はまたのぼる』も地方が舞台である。『歌姫』というドラマは高知の片田舎が舞台だった。
私が見た記憶のあるドラマしかあげられないが、田舎や地方が舞台のドラマはほかにもっとあるだろうし、増えているのだと思う。映画でも『UDON』は四国の香川が舞台だったし、『天然コケッコー!』という映画は島根県である。地方が舞台の映画はもっとあるだろうし、マンガやゲームについても地方が増えているそうだ。
なぜフィクションの舞台は地方に移ったか(〜田舎の伝承〜) PSB1981の日記
なぜこうも地方のフィクションが増えたのかと考察したいのだが、多くのドラマや映画をそのようなテーマでもういちど見直したわけではないし、肝心の創作者側の意図をインタビューなりで読んだわけではないので、考察は時期尚早である。が、かんたんな考察を投げ出してみよう。
いちばん思いつきやすいのは、原作者がその地方の出身者であるということである。『世界の中心で、愛をさけぶ』は原作者の出身地が四国の愛媛であり、映画は香川でおもに撮影され、TVドラマは静岡県等で撮られた。『天然コケッコー!』という映画の原作者の出身地は島根県であり、そこが舞台になった。地方出身者の故郷への郷愁、もしくは実体験を描きやすいということで舞台が地方になるのだろうが、かつては主要なメディアに田舎で舞台の物語は受容されただろうか。
東京が舞台になるようなドラマは、全国が「東京化」してしまった今日、あまりおもしろみや新鮮味のあるものではなくなってきたのだろう。地方であろうと東京のようなショッピングモールやロードサイドショップはたくさん並び、「こんなものであろう」という想像はできる。郊外の住宅地は地方の都市にもおおく造成され、画一的で標準的な都市は全国にいきわたった。東京が「輝かしい」ものでなくなってきた背景が、ドラマの地方化にあらわれているのかもしれない。
若者に消費欲の減退や物質欲のなさがささやかれる。団塊ジュニアの女性にへたにバブル期のようなブランドの自慢をすればイタイ目で見られるという話も聞く。消費欲求の減退があるのなら東京の魅力は落ちるし、全国のどこにでもあるようなショッピングセンターをべつのほかの地にもとめる意味もない。東京という消費の中心地は、零落をはじめているのかもしれない。
ただ地方のドラマを見ていてもその舞台や地方が魅力あるものや憧憬されるものとしての描かれ方はしていないと思う。あくまでも「たまたま」の舞台、どこでもよかった舞台のひとつにしか描かれていない気がする。田舎や自然の風景のすばらしさやのんびりとした雰囲気といったものは、そう前面に押し出され、憧憬されるものとしては描かれていない。背景としての地方が舞台になっているだけのようである。ロケーションがすばらしいといった映し方はされていないのである。
考えてみたら日本は広いし、日本の都市というのは多くの山間や海に隔てられた向こうにあり、そのような町が全国に散らばっているのが日本というものであると思う。山間や海の間際に住み人たちもたくさんいる。それなのに東京がただひとつの日本の町であるかのようなメディアの一方通行はながくTV界を支配してきたのだと思う。日本には東京しかなく、メディアを全国で見る人たちは、あたかも東京という街に住んでいるかのようなバックグラウンドを与えてきたのではないかと思う。メディアというものは地方性を抹殺し、相殺し、空間や距離がないような錯覚を与える。私たちは東京という街の住民のような錯覚に陥ってきたのかもしれない。
そして日本全国に東京のようなショッピングセンターやロードサイドショップ、画一化した郊外住宅地をつくり、東京消費基地を全国に蔓延させた。だが消費というのはいつまでも魅力をたもつわけではないし、モノを買ったり買うだけの人生に人は満足するかというと、やはりそのおかしさには気づくものである。「買うためだけに生きているのか」と空しくはならないだろうか。モノであふれた街は全国にできてしまったが、いつまでもモノの魅力が人生を導く原動力にはなりえない。
商品がたくさん選択でき、買える場所というのは人が密集し、交通が混雑し、大きな景色や広がりのある景観がながめられる場所ではない。家を出るとひとりでほっと一息つける空間もない。人だらけである。他人の目を逃れる場所もない。いっぽう、過疎化や都市の移住によって、打ち捨てられてきた田舎や地方には広大で余裕のある土地が広がっている。人がせわしなく動き回らないおかげで、時間もゆっくりと感じられる。地方出身者の原作本は出身地の郷愁を語りながら、都会人の魅力を無意識にひきつけているのかもしれない。
映画の『ALWATS 三丁目の夕日』などで昭和三十年代の郷愁が強まった。昭和の高度成長期前あるいは最中ののどかで夢のあった時代へのノスタルジーがブームになった。そのような時間軸というのは東京と地方という時間軸にも転用できるものである。地方というのは過去であり、失った郷愁をのこしているものである。「失われた時間」という想いをもつ都会人にとっては、地方は「失われた過去」なのである。過去のノスタルジーを探して、地方は求められるのかもしれない。
まあ、でもこの都会と田舎の図式はあまりにも単純であり、類型化されており、こっけいである。書いていてバカらしくなる。そんな単純なステレオタイプがあてはまるわけがない。「都会=ごちゃごちゃ」、「田舎=のびのび」という単純な図式は、都会人の優劣ヒエラルキーがつくりだすひとつの夢想であり、利己的な蔑視意識がつくりだすものである。そのような意識が田舎の蔑視をいっぽうでは生み出すものである。田舎への憧憬というのは、都会人が頭の中で勝手に描く自己優越感の裏返しの「物語」でしかない。いっぽうでは憧憬を生み出し、一方ではバカにする、すべて自分の頭の中のご都合的な浅はかな判断でしかない。
メディアは送り手である特権をもち、そして受け手を抹殺する。東京は送り手であり、地方は受け手となり、存在しないものになる。受信機のような存在になり、判断やまなざす主体である価値を奪われてしまう。地方の存在は一方的にヒエラルキーづけられたり、判断されたり、評価・蔑視されるだけの受動態になる。つまりメディアをもたない人間はメディアをもつ人間の「奴隷」となるのである。一方的に評価され、判断され、ヒエラルキーづけられるだけの存在になってしまう。地方はメディアをもたないがゆえに透明な存在になる。地方というのはながらく判断や意見の主体であるという存在の価値を奪われてきたのではないかと思う。
フィクションに地方が存在しはじめたということは、メディアによって平準化され、画一化され、つまり空間や距離のないものとして表象されていた同一の日本人であるという物語が、地方によって違う、地方には地方の特色があるという相違の発見をうながしてゆくことになるかもしれない。東京のメディアによる平準化が崩れてゆくとするのなら、地方のドラマはおおいに歓迎というところである。まあ、でもそんな希望を楽観的に抱けるものではないが。
▼関連メディア
YouTube 『世界の中心で 愛をさけぶ TV版』 緑豊かな地方が舞台ですね。
YouTube PV ランクヘッド 夏の匂い 田舎には恋の物語がのこる?




コメント
お、とうとう『坂の上の雲』ができあがりますか?
司馬遼太郎の原作はまだ読まずじまいですが、読んでおこうかとなとも思います。原作が先か、TVが先か、どっちがいいんでしょうね。やっぱり原作でなんでしょうね。
それにしても四国の映画は多いですね。『UDON』は香川だったし、『セカチュー』も原作の舞台は宇和島だったという話ですし(原作者の出身地ですね)、『眉山』は徳島でしたし、ドラマの『歌姫』は高知でしたね。私は『眉山』という徳島の映画はなんでできるのかと不思議に思いましたが。
ちょっと前はSPEEDであるとか、夏川りみとか、仲間由紀恵とか新垣結衣とか沖縄出身者が大挙して押し寄せましたね。アメリカのヒットチャートでも80年代にブリティッシュ・イノベーションというイギリスのロックがアメリカにたくさん進出したことがあります。
やはりそのような時代というのは中央の閉塞感とかいきづまり感がおおいに関わりがあるのだと思います。中央が「外の風」をほしがっている時代なんだと思います。明治維新にしても薩摩とか長州とかの力が大きかったわけですし。
フィルム・コミッションの力があるにせよ、四国はそういう「外の風」を感じさせれる力やなにかがあるのかもしれませんね。若い世代は四国をこういう映画やドラマによってイメージをつくってゆくのでしょうね。そしていつか訪れてみたいという憧れの地になったりするんでしょうね。
90年代には『東京ラブストーリー』とかが大流行しましたが、隔世の感がします。時代は底辺から大きく変わってゆくのかもしれませんね。これはいったいどういう変化なのか、なにかを変えるのか、観察してゆきたいと思っています。
参考に「県内(香川県)ロケの映画 続々公開へ」(四国新聞2004)のリンクをはっておきます。
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/252/index.htm
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ボクは愛媛の映画大好き少年(あと1ヶ月だけ)です。
ここ愛媛県はよく映画やテレビドラマの舞台になります。今はNHKの3年間にわたる大河ドラマ「坂の上の雲」の撮影で盛り上がっています。「セカチュ−」も愛媛撮影がありました。映画「となりまち戦争」や「船を下りたら私の島」も松山でしたし、「うどん」は香川、「眉山」は徳島で、四国や瀬戸内は多いようですね。
聞くところによると地方で制作すると制作費や現地経費がとても安くできるようです。中には自治体が負担してくれたり、宣伝費として提供してくれたり。
ボクも関西テレビ製作のドラマ「がんばっていきましょい」を手伝ったり出演しましたがで、ほとんど弁当代と記念品だけでした。それでもけっこう楽しかったですから、いいか、って感じです。
先日、松山でロケがあった「江戸川乱歩・・」などはエキストラはすべてボランティアで、衣装まで自前でしたよ。
映画界も不景気でいろんなところに収入源を求めているようです。
でもやはり「男はつらいよ」シリーズなどは地方だったから郷愁のようなモノが感じられてよかったのでしょうね。